■検証67「日蓮本仏義」偽作の動機1・「戒壇大本尊」を理論的に正統化するため2

 

釈迦牟尼本仏義を否定して釈迦の因行を本尊とすべきであると説いた大石寺9世日有

 

仏教という宗教では、衆生を仏道に導く仏(能化の仏)がいて、導かれる衆生(所化の衆生)はその仏の仏門に入り、さまざまな修行を積み重ねた後、仏に成る(成仏)ことができるというものであるが、もともと仏教では、過去七仏にみられるように釈迦牟尼が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した仏陀たちの前世の功徳が累積した結果であるという思想があった。本仏思想は12世紀頃の天台宗に見られ、日蓮の本仏思想は、中古天台思想の影響を受けているという説を立てている日蓮宗系・日蓮正宗系の学者・研究者がいるが、しかし、現在の天台宗は本仏思想を説いていない。本仏思想というものは日蓮宗勝劣派と呼ばれる宗派のみが積極的に主張しているものである。日蓮宗・法華宗下の教義では、法華経の如来寿量品第十六の文中に無量長寿の釈迦牟尼仏が登場するが、この釈迦牟尼仏こそ本仏であるであるという教義・釈迦牟尼本仏論を立て、日蓮本仏論と対立する。この釈迦牟尼本仏としての釈迦牟尼仏は久遠仏ないしは久遠実成本仏とも呼ばれ、仏典に出てくる無量の諸仏はこの釈迦牟尼本仏の迹仏とする。大乗仏教経典には十方の仏をはじめ、現在過去未来の無量の諸仏が登場するが、すべて本仏釈迦牟尼仏のコピーに過ぎず、単なる迹仏と言う論である。この本仏は紀元前のインドに生まれて八十年生きたと言う釈迦牟尼とは論者により必ずしも同体ではないが、しかし仏典に出てくる無量の諸仏を産んできた根本の本仏とするものである。この釈迦牟尼本仏義では、日蓮はあくまでも釈迦牟尼仏の弟子であり、本仏ではないとしている。

しかし、日蓮本仏義では、宗祖・日蓮が生きた時代は末法であり、法華経に説かれる五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)に始まる有始有終の仏・釈迦牟尼の教えは、末法では役に立たず(白法隠没=びゃくほうおおんもつ)、末法の世では釈迦牟尼の代わりに、釈迦牟尼が五百塵点劫の昔に成仏した時の因行(本因妙)である、無始無終の久遠元初の本仏・日蓮の教えによってのみ救われる、とする。大石寺9世日有は、まず明確に釈迦牟尼本仏義を否定し、釈迦の因行を本尊とすべきであると説いている。

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、… 本門の釈迦は上行等云云、故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり、其の故は神力結要の付属は受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終つて脱する所を終りと云ふなり、脱し終れば種にかへる故に迹に実躰なきなり」(『日有師化儀抄』p109)

釈迦の因行を本尊其故我等が高祖日蓮聖人にて在す
 

 

 

□釈迦本仏義を否定して日蓮が本尊・本仏であると論じた大石寺9世日有と左京阿闍梨日教

 

大石寺9世日有は、釈迦牟尼本仏義を否定したあと、日蓮こそが本尊・本仏であると論じる。

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」(『日有師化儀抄』p109)

釈迦の因行を本尊其故我等が高祖日蓮聖人にて在す
 

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍つて今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p65)

当宗本尊事、日蓮聖人限奉るべし
 

大石寺9世日有は「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であるとする。すなわち、釈迦牟尼本仏義を否定して、日蓮=本尊であると説いているわけだから、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏ということでないと、辻褄が合わなくなる。

大石寺9世日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には

「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2p159)

高祖大聖は我等為に三徳有縁主師親・唯我一人御尊位
 

という大石寺9世日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ本仏の位であると日有が言っている、ということになる。しかし大石寺9世日有は、日蓮=本尊ではあるが、それは日蓮の木像を独立して本尊とするのではなく、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。「化儀抄」の中に

「法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」(『日有師化儀抄』p7374)

法華宗何名筆観音妙音等諸仏菩薩本尊為十界所図日蓮聖人遊所図本尊1


法華宗何名筆観音妙音等諸仏菩薩本尊為十界所図日蓮聖人遊所図本尊2
 

と大石寺9世日有が説いた説法が書き残されている。「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」と説いた大石寺9世日有が、もう一方では「只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」と、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。「十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」とは、明らかに日蓮の木像(御影)ではなく、大漫荼羅のことであるが、大石寺9世日有は特に「日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」と言っていることから、これは法主が書写した大漫荼羅本尊などではなく、日蓮真筆の大漫荼羅本尊ということになる。

大石寺において、根本本尊としている本尊とは、日蓮真筆そのものではなく、大石寺9世日有が偽作して日蓮真筆を詐称している「戒壇の大本尊」なる板本尊である。大石寺9世日有教学を整理すると、仏教の本仏思想においては、基本的に本仏=本尊ということになるが、「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であり、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏を導き出しているが、その本尊とは、「戒壇の大本尊」であり、本仏=本尊=日蓮=「戒壇の大本尊」ということになる。すなわち、大石寺9世日有の「日蓮本仏義」は、「戒壇の大本尊」を根本本尊に据えるための教義理論を完成させるためのものである。大石寺9世日有の門に入った左京阿闍梨日教が著書で

「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」 (大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p182・左京阿闍梨日教著書「百五十箇条」より)

本門教主釈尊とは日蓮聖人御事
 

「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p320・左京阿闍梨日教著書「類聚翰集私」より)

当家本門教主釈尊名字位日蓮聖人
 

等と、日蓮本仏義の鼓舞・宣揚に発展せしめているのは、大石寺9世日有教学と軌を一にしたものである。

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

戒壇大本尊3
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)