■検証16・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない9

 

□仏教各宗派の本山法主・貫首・管長選出方法は高僧の合議・選挙・指名等、一定していない

 

日蓮正宗の「二箇相承」「血脈相承」論を聞いていると、

「日蓮大聖人は日興上人に相承しなかったというのなら、だれに相承したというのか」

「日蓮大聖人が六老僧に平等に相承されるはずがない」

といった感じで、「日蓮は後継者を一人だけ指名した」「法主は後継選定にあたっては、次期法主を必ず指名する」「合議や選挙による選定など、ありえるはずがない」という、偏狭な日蓮正宗流の血脈相承論・次期法主選定論に中に完全に凝り固まっており、その中から一歩も出ようとしないことがわかる。しかし、仏教各宗各派を見ると、一宗の法主・管長、本山貫首の後継者選定にあたって、仏法が師から弟子へと相続されるという相承によって伝承されるとする宗派もあることはあるが、能化など、ある一定の資格者、候補者の合議、輪番ないしは互選、選挙で選出しているという宗派もかなりあり、その方式はバラバラで一定していない。

日蓮宗各派の本山法主や管長の選定方式は、大半が高僧の「合議」か、ないしは教師僧侶による「選挙」といった選定方式をとっている。仏教各宗派の本山貫首・管長選出方法は、前法主ないしは前貫首による後継指名で一定しているわけではなく、それぞれの宗派で、高僧の合議・選挙・指名等があり、まちまちで一定していない。「日蓮大聖人は日興上人に相承しなかったというのなら、だれに相承したというのか」「日蓮大聖人が六老僧に平等に相承されるはずがない」「合議や選挙による選定など、ありえるはずがない」等々の日蓮正宗の信者の疑難は、ことごとく的外れである。身延山久遠寺二祖・日向の晋山は、身延山地頭の南部実長の要請であった。二祖日向以降の身延山久遠寺は、三祖日進、四世日善、五世日台、六世日院、七世日叡と南部一族から住持が出ている。日蓮正宗も、明治末期から昭和初期にかけては大石寺56世大石日応の後継、大石寺58世土屋日柱の後継、大石寺59世堀日亨の後継選定にあたっては、「管長候補者選挙」を行って、次期後継法主を決めていたではないか。「合議や選挙による選定など、ありえるはずがない」と言うなら、なぜ日蓮正宗は、「管長候補者選挙」を行っていたのか。

戦後においても、大石寺64世水谷日昇の後継法主選定にあたっては、管長候補者選挙が告示されたが、堀米日淳以外の能化僧が全員、次期法主への立候補を辞退し、これにより実質的に65世法主が堀米日淳に決定したものである。

日興が筆録した「御遷化記録」にある、六老僧の「定」を見ると、どちらかといえば六老僧の「合議」「輪番」「互選」にて、身延山久遠寺の別当職(法主)の選定を想定していると考えられるのである。

というのは、すでに日昭は鎌倉方面、日朗は鎌倉と池上方面、日興は駿河国富士方面、日向は上総国藻原方面、日頂は下総国真間方面、日持は駿河国静岡方面に布教の拠点をもっていた。

身延山久遠寺に別当として常駐ないしは輪番で当住することになれば、その間、自らの布教拠点の弟子の僧侶や信者と連絡・往来するだけで、かなり大きな経済的、人的な負担がのしかかるからである。それは、この当時、六老僧にとって、身延山久遠寺に別当職として、たとえ輪番にせよ、ある一定の期間でも常駐するということは、かなり大きな負担になった。もし日蓮が六老僧の中の誰か一人を身延山久遠寺の別当として指名した場合、その人だけに経済的、労力的な大きな負担がのしかかることになる。

 

 

□日興真筆・日蓮遷化記録が真書なら「二箇相承」「唯授一人血脈相承」は後世の偽作である

 

身延山大学仏教学部教授・望月真澄氏は著書「御宝物で見る身延山の歴史」の中で、次のような見解を書いている。

「身延で一ヶ月の奉仕を続けるには、当時の交通事情を考えると多くの日数を要することになります。例えば、鎌倉に拠点を置く日昭上人や日朗上人は、(身延山まで)片道五日、往復十日を費やすことになり、真間の日頂上人や茂原の日向上人は、さらに多くの日数を要します。よって各地の布教活動が疎かにもなり、信徒の動揺も出てきたことから、日蓮聖人三回忌の頃には(輪番奉仕の)実行が難しくなってきました。そこで正応元年(1288)、聖人七回忌にあたり、輪番奉仕が現実になされていないことが問題となり、専任の住持を(身延山久遠寺に)置いて祖廟を守ることになったわけです。南部実長の要請により、日向上人が(身延山久遠寺)二世の法灯を継承することに決まりました」(望月真澄氏の著書「御宝物で見る身延山の歴史」p34)

 

法臘(僧になってからの年数)順にした場合、必然的に日蓮後継の身延山久遠寺別当は日昭ということになり、日昭だけに負担がのしかかる。六人の輪番にした場合、一見、平等に見えそうだが、布教拠点が身延山久遠寺に近い日興や日持にはさほど大きな負担にはならないが、身延山久遠寺から布教拠点が遠いところにある、日昭、日朗、日向や日頂にとっては、条件的に不利になる。

したがって、日蓮としては六老僧の「合議」による身延山久遠寺の別当選定を想定していたと考えるのが普通であろうし、六老僧の「定」の書き方としては、特定の人物の指名や法臘の順などではなく、順不同による「不次第」とせざるを得なかったのではないか。普通に考えれば、そういうことになるであろう。その六老僧が順不同による「不次第」と書かれているのが、日蓮遷化記録である。国の重要文化財に指定されている「日蓮遷化記録」が偽書ということは絶対にあり得ない。

よって「日蓮遷化記録」が「正」で、「二箇相承」が「偽」である。日興が書いた日蓮遷化記録に照らし合わせれば、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」は後世の偽作であることは疑いないことである。

要山13日震書写の二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている京都要法寺13祖日辰書写「二箇相承」)

大石寺14日主書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている大石寺14世日主書写「二箇相承」)

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』