□滅亡寸前の状態にまで疲弊した大石寺門流を復興させた室町時代の大石寺第9代法主日有

 

正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」には、今でも「日蓮正宗とはどういう宗派なのですか」「日蓮宗とは違うのですか」「日蓮正宗とはいつからこんな過激な折伏をしているのですか」「日蓮正宗の宗務行政のしくみは、どうなっているのですか」「他の伝統仏教や会社とは同じなのですか、ちがうのですか」…といった質問が、ひっきりなしに寄せられてくる。そこで「日蓮正宗」という宗派の歴史、宗務行政、過激体質等々をもう一度、おらさいしてみたい。

日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖とし、日蓮の高弟である六老僧・日興を派祖とする仏教の宗派・富士門流のひとつ。日蓮系諸宗派のなかでは、富士門流(日興門流)に属し、「興門(日興門流・富士門流)八本山」のうち、大石寺(総本山)、下条妙蓮寺(本山)の二本山、さらにその他には讃岐本門寺(本山)、日向定善寺(本山)が所属する、富士門流の中では、最大の信徒数を持つ有力宗派である。

日興は、日蓮の本弟子六老僧の一人として積極的な折伏を富士方面で展開し、目覚しい成果をあげ、強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉幕府内権力者の警戒心を招き、1279年(弘安2年)には熱原郷付近の日興門下の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。1282年(弘安5年)、宗祖日蓮の滅後、身延山久遠寺の日蓮廟所の六老僧による輪番制が敷かれたが戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に、輪番制を崩壊。日蓮の本弟子六老僧の一人の日向が身延山久遠寺第二祖に晋山し、日向より上位の老僧である日興は身延山を離山。日興は 1289(正応2)に多宝富士山下之坊を開山。翌1290(正応3)、日興は南条時光の寄進によって富士山の麓に、現在の日蓮正宗の総本山である大石寺を開いた。当時の大石寺は、とても総本山と呼べるような陣容ではなく、末寺もわずか数ヶ寺だけ。1333(元弘3)の日蓮の高弟である六老僧・日興、そして日興の本六僧・日目の死後、富士門流は北山本門寺と西山本門寺の紛争、さらに大石寺門流も、同じ富士門流の保田妙本寺、小泉久遠寺の門流と、大石寺蓮蔵坊の所有権をめぐる約70年にわたる紛争が勃発。これにより大石寺門流は、まさに滅亡寸前の状態にまで、大きく疲弊した。そんな大石寺門流を復興させたのは、室町時代の15世紀、大石寺の第9代法主になった日有(にちう)という怪僧である。希代の怪僧・大石寺9世日有は、15世紀初頭のころ、駿河国(今の静岡県)と甲斐国(今の山梨県)の国境付近に金山(湯之奥金山)が発見されたのを奇貨とし、この金山が産出する金鉱を経済力として、大石寺を日蓮宗の総本山、富士門流の総本山にしようと企て、「戒壇の大本尊」と称する黒漆塗りに金箔加工の巨大な板本尊を偽作して、「大石寺が日蓮から相承した」などと詐称した。

□大石寺の『戒壇大本尊』は日蓮造立ではない偽作本尊だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161867.html

□大石寺の『戒壇大本尊』は大石寺9世日有の偽作である

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

 

 

□安土宗論・大阪対論で日蓮宗は折伏を放棄したが大石寺は過激折伏体質を温存していた

 

さらにこれだけではなく、大石寺9世日有は「日蓮本仏義」「唯授一人血脈相承」「二箇相承」「日興跡条条事」「本尊七箇相承」「百六箇抄」「本因妙抄」「本尊三度相伝」「御義口伝」といった教義・相伝書なるものを次々と偽作。「大石寺法主だけが日蓮から相伝してきた」と詐称した。

□大石寺の「日蓮本仏義」は大石寺9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_645663.html

□大石寺法主の「唯授一人血脈相承」は大石寺9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_701474.html

□大石寺の『百六箇抄』は大石寺9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_193008.html

大石寺9世日有が偽作した本尊・教義は、現在の日蓮正宗の根幹の本尊・教義になっており、日蓮正宗の事実上の開祖である。希代の怪僧・大石寺9世日有は、日蓮正宗から「中興の祖」と崇められている。大石寺9世日有は、全国各地に布教をして大石寺門流を復興させたが、他の富士門流本山の勢力を凌ぐ存在にまでは至っていない。

しかし16世紀半ば、甲斐国の戦国大名・武田信玄が湯之奥金山の利権を独占したことで、再び大石寺の経済力は枯渇。戦国時代、大石寺14世日主は、同じ富士門流八本山の京都要法寺と通用(交流)を開始。これにより京都要法寺の僧侶、信徒、カネが大石寺門流に流入。大石寺15世から23世までの9代の法主は、京都要法寺出身である。

戦国時代の戦乱の中、日蓮を宗祖とする日蓮宗各派は、大きな変革を余儀なくされた。日蓮の滅後、日蓮の高弟である六老僧・日朗の弟子・日像が京都に布教して教線を拡大。日像門流の本山・京都妙顕寺が建武元年(1334年)に後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となった。ところが唯一の「大乗戒壇」比叡山延暦寺がこれに猛反対。比叡山衆徒により京都妙顕寺伽藍が何度も破却され、これが最終的に天文5年(1536年)、天文法華の乱で京都が灰燼に帰し、日蓮宗各派は日蓮「三大秘法抄」の戒壇建立を封印してしまう。

さらに戦国時代に全国平定を企図した武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、いずれも日蓮宗各派の「念仏無間地獄、真言亡国、禅天魔、律国賊」の「四箇の格言」や過激折伏布教を危険視した。1579年(天正7年)、織田信長の命により、安土城下の浄厳院で、安土宗論と称される浄土宗と日蓮宗の宗論が行われた。日蓮宗は安土宗論に敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。1595年(文禄4年)豊臣秀吉が主催した方広寺大仏殿千僧供養会への出仕状が、全国の仏教宗派に発令され、これが奉行・前田玄以から日蓮宗に届いた。これは実質的に、仏教各宗派が豊臣秀吉に服従するかどうかを問う“踏み絵”であり、豊臣秀吉に臣従しない宗派は滅亡されることが明らかであった。富士門流を含む多くの日蓮宗は、豊臣秀吉の意向に逆らうことは、日蓮宗各派の滅亡に繋がるとし、千僧供養会に出仕して豊臣秀吉の供養を受けることに決定した。しかし日奥は法華信者ではない豊臣秀吉の供養会に出仕して供養を受けることは、日蓮宗の宗義に反する行為であるとして反対。1596年(文禄5年)日奥は、豊臣秀吉に「法華宗諌状」を提出して京都妙覚寺を出寺し、丹波小泉に蟄居した。1598年(慶長3年)豊臣秀吉が没すると、日奥は公命違背として訴えられ、1600年(慶長4年)、方広寺大仏殿千僧供養会の出仕について、徳川家康が「受布施」を主張する京都妙顕寺・日紹と「不受不施」を主張する京都妙覚寺・日奥を大阪城で対決させた大阪対論を行わせた。この大阪対論は、豊臣秀吉・徳川家康に臣従しない日蓮宗の「不受不施派」弾圧の口実であった。大阪対論の結果、「不受不施」派は敗北して袈裟・数珠を剥ぎ取られ、日奥は対馬に流罪となった。その後、日蓮宗の「不受不施派」は、キリスト教とともに徳川幕府から禁止され、250年にもわたって弾圧され続けた。日蓮宗の「不受不施派」が政府から公認されて、本山・寺院を建立したのは、明治維新以後のことである。

こういった一連の歴史的事件により、日蓮宗各派は「四箇の格言」や「折伏」を放棄。徳川幕藩体制下の宗教政策の中に組み入れられていく。大石寺門流も、「不受不施派」のように弾圧されることを避けるために、表面上は「戒壇建立」「四箇の格言」「折伏」を放棄したかのように装ってはいたが、実はその過激折伏体質を温存させていたのである。

方広寺2
 

(現在の方広寺に残る『国家安康・君臣豊楽』の釣り鐘)

妙覚寺23山門
 

(現在の日蓮宗不受不施派本山・妙覚寺)