□大石寺に見殺しにされた金沢・尾張等で過激折伏事件で逮捕・投獄された大石寺僧侶・信徒

 

大石寺門流は、徳川幕府の禁制に平然と反して過激な折伏を展開するという過激体質を、あの江戸時代においてすでに持っていたのであり、大石寺門流は幕府公認宗派になり宗教論争・自讃毀他が禁止されたが、実際は全国各地で過激折伏事件(日蓮正宗で言う“法難”)を引き起こしていた。この大石寺門流の江戸時代の過激折伏事件について、見逃してはならないポイントがある

徳川幕府は1615(元和1)年、徳川幕府は武家諸法度、禁中並びに公家諸法度と同時に、諸宗諸本山諸法度を発布。1665(寛文5)年、徳川幕府は諸宗寺院法度を発令。これらの諸法度により、各仏教宗派に本山・末寺の関係をつくり、武家から庶民に至るまで全て、徳川幕府公認宗派の檀家として登録する宗門改帳を作成。一戸毎に宗旨と檀那寺、戸主と家族らの名前、続柄、年齢などが記載され、寺請制度がほぼ完成。徳川幕府公認宗派は宗教論争や自讃毀他(じさんきた・自宗を讃めたたえ他宗を誹謗すること)が禁止、僧侶の街中にての法談、念仏講、題目講等の集会も禁止、実質的に折伏・布教が禁止された。そして徳川幕府から禁止されたキリスト教と日蓮宗の「不受不施派」は徹底的に弾圧された。こんな時代に、過激折伏を展開すれば、折伏・布教活動を行った僧侶や信徒は逮捕・投獄され、大石寺に幕府・寺社奉行の詮議が入り、大石寺門流そのものが、日蓮宗「不受不施派」と同様に弾圧され、大石寺そのものが取りつぶしになる可能性すら出てくる。では、大石寺門流は、江戸時代にこれだけの宗教論争や過激折伏事件を引き起こしておいて、本山の大石寺、トップの大石寺法主が過激折伏の僧侶・信徒の逮捕・投獄を防止できる政治力を持っていたわけでもなく、僧侶・信徒の逮捕・投獄に対抗できる政策を講じていたわけでもない。金沢・尾張・仙台・伊那・八戸等で過激折伏事件を起こして逮捕・投獄された僧侶・信徒たちは、ことこ゛とく大石寺によって、冷たく見捨てられ、見殺しにされたのである。

こう言うと、日蓮正宗の者は「そんなことはない。1727(享保12)年に日詳上人が加賀藩江戸屋敷に加賀藩領内に末寺建立を出願された」と言うが、これは詭弁である。江戸時代においては、徳川幕府は全ての宗派に新寺建立を禁止しており、大石寺28世日詳が加賀藩江戸屋敷に新寺建立を出願したからとて、絶対に認められるわけがない。1727(享保12)35日に大石寺28世日詳が提出した新末寺建立の出願は、その2日後に即刻却下の憂き目にあっている。

大石寺より前田領国内末寺創建願1


大石寺より前田領国内末寺創建願2
 

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』9p291293「大石寺より前田家領国内に末寺創建の願」)

大石寺が冷たく見殺しにしたのは、過激折伏事件を起こして逮捕・投獄された僧侶・信徒たちだけではない。江戸時代の加賀藩では、下級武士とその家族たちに、加賀藩では禁制になっていた大石寺の信仰をする「隠れ大石寺信者」が数多くいた。その「隠れ大石寺信者」の下級武士たちが、加賀藩主の参勤交代の行列が吉原宿(今の静岡県富士市吉原)に宿泊したとき、“抜け詣り”を決行している。“抜け詣り”とは、「当流法難史」によれば、陣屋が寝静まった後に、「隠れ大石寺信者」の加賀藩武士たちが、大石寺までの約15キロの道を走り、大石寺宝蔵前に到着すると、宝蔵の石畳に端座して唱題。そして白々と夜が明け始めたころ、藩主一行が目覚める前に陣屋に帰るべく、大石寺から吉原宿へ駆け戻ったという。(日蓮正宗理境坊妙観講発行「当流法難史」より)

 

 

□不受不施派同様の取り潰しを恐れ大石寺に見殺しにされた加賀藩の「隠れ大石寺信徒」の武士

 

江戸時代のころは、今のように電気も電灯もテレビも動画もなく、人びとは日没とともに寝静まり、夜明けとともに起きる生活をしていた。陣屋が寝静まる時刻とは夜19時ころか。42キロを2時間で走るマラソンランナーなら、15キロの道は余裕で1時間で走り抜けるだろうが、一般人だと2時間くらいか。そうすると朝5時に吉原宿に戻るとして、夜21時~翌朝3時くらいまで、大石寺境内内の宝蔵前で、仮眠しながら唱題していたことになる。この話しを日蓮正宗では

(抜け詣りが)発覚したら、厳罰に処されるであろう、危険のともなった(大石寺への)登山であったが、それでも(加賀藩の隠れ大石寺)信徒たちは喜々として、これに臨んだのであった」

(日蓮正宗理境坊妙観講発行「当流法難史」p32)

「当流法難史」金沢法難1


「当流法難史」
 

などと言って、美談化しているが、よくよく考えて欲しい。加賀藩の「隠れ大石寺信徒」の武士たちが、これだけ「危険をともなった」大石寺登山を決行して、当時、「戒壇の大本尊」が格蔵されていた大石寺宝蔵前で深夜に唱題していたにもかかわらず、当の大石寺は、宝蔵の門の扉を固く閉じたまま開けようともせず、「戒壇の大本尊」の内拝も開扉も許さなかった。そればかりではない。これらの信徒に「ねぎらい」の言葉ひとつかけず、お茶やお茶菓子でもてなすことも、塔中の宿坊の中で暖をとってもらうことも一切せず、大石寺の宝蔵、客殿、御影堂、大坊、塔中の宿坊等の伽藍・堂宇の門も扉も冷たく閉め切って、一切、中に入れさせなかった。そして当の大石寺に住む法主、塔中坊の住職たちは、温かい庫裡の中で寝ていた。大石寺は、加賀藩の「隠れ大石寺信徒」たちに、さんざん過激折伏や大石寺登山を煽り立てておいて、その「隠れ大石寺信徒」たちが本当に大石寺に登山参詣すると、「大石寺はこの者たちとは関係ない」と言わんばかりに、伽藍・堂宇の門も扉も冷たく閉め切り、一切、中に入れさせずに見殺しにした。大石寺に見殺しにされた加賀藩の「隠れ大石寺信徒」たちは、真冬には氷点下になる大石寺の凍てつく石畳の上で、唱題せざるをえなかったのである。「金沢法難」とは、日蓮正宗が言う「隠れ大石寺信徒」の信仰の美談ではなく、「隠れ大石寺信徒」が大石寺に冷たく見殺しにされた悲劇の事件である。

大石寺は、「寛政の法難」の京都要法寺には、加賀藩の「隠れ大石寺信徒」に対する冷淡な態度よりも、さらにひどい態度をとった。そもそもこの「寛政の法難」という事件の発端は、大石寺22世日俊、大石寺23世日啓、大石寺26世日寛ら歴代の大石寺法主が、京都要法寺の本尊・教義を「造仏堕地獄・読誦無間地獄」と攻撃したことにはじまる。1795(寛政7)年、京都要法寺が釈迦仏像本尊・釈迦本仏義・黒衣・法華経一部読誦を廃止して、曼荼羅本尊・日蓮本仏義・薄墨色衣白袈裟・法華経方便・寿量品読誦の大石寺の化儀に改定する。これにより京都要法寺と日蓮宗15本山の間に紛争が起こり、京都要法寺一山僧侶全員が逮捕・投獄されるという、「寛政の法難」が起こったのである。京都要法寺は、徳川幕府・寺社奉行の厳しい詮議・取り調べの中で、1797(寛政9)年、自山の立場について、「大石寺開山日興上人の弟子つづき」、つまり要法寺は大石寺と同門であると主張。徳川幕府・寺社奉行は大石寺に、その当否の照会をした。

要法寺17表門
 

(現在の京都要法寺)