□明治政府の「一宗派一管長」等の強権的な現実無視の宗教統制政策に反発した大石寺門流

 

1868(明治1)年の明治維新によって、265年つづいた徳川幕府の治世は終わり、明治天皇を元首とする新政府が成立。徳川幕府の宗教政策はことごとく覆され、明治新政府は新しい宗教政策を行った。1868(明治1)328日、明治新政府が神仏分離令を発布。1871(明治4)45日、新しい戸籍法が発布され、宗門人別帳寺請制度が廃止された。そして同年514日、神社をもって国家の祭祀とすることを発布。実質的に神道が国教に近い存在になった。1872(明治5)年、明治政府が僧侶の肉食妻帯蓄髪を解禁し、法要以外の僧侶の俗服着用を許可。1873(明治6)年には、徳川幕府では禁制とされ弾圧されつづけていたキリスト教が解禁。1876(明治9)年、同じく徳川幕府では禁制とされ弾圧されつづけていた日蓮宗「不受不施派」の再興が許可された。

この明治維新によって大石寺門流の過激折伏体質はどうなっていったのか、ということになるが、明治時代に入って以降、大石寺門流の過激折伏体質は、江戸時代よりもさらにエスカレートしていったのである。それはなぜか。

まず第一に、宗教論争や自讃毀他(じさんきた・自宗を讃めたたえ他宗を誹謗すること)、僧侶の法談、念仏講、題目講等々、布教活動を徹底的に禁制にした徳川幕府が倒れたこと。これにより江戸時代に大石寺信徒が過激折伏事件を起こした金沢、尾張、伊那、八戸等で大石寺門流(日蓮正宗)の新寺院が建立され、公然と宗教論争や折伏布教活動を行うことが可能になったこと。

第二に、1868(明治1)328日に明治新政府が発布した神仏分離令によって、日本全国に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動。廃仏は仏を廃し(破壊)し、毀釈は、釈迦の教えを壊(毀)すという意味)の嵐が全国に巻き起こり、全国各地の仏教寺院が大打撃を蒙ったのだが、この中にあって静岡県の富士山麓の大石寺は、割と廃仏毀釈による被害が少なかったこと。

第三に、明治政府が全国の仏教各宗派に対して、現実を全く無視した「一宗一管長制」という、かなり強圧的な宗教政策を行い、これが仏教各宗派の猛反発を買ったこと。これはどういうことかというと、明治維新以前から、例えば臨済宗は建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、大徳寺派、妙心寺派、天龍寺派、相国寺派等に分かれている。浄土宗は鎮西派、西山派に分かれ、浄土真宗は大谷派(東本願寺)、本願寺派(西本願寺)、仏光寺派、興正派、木辺派、高田派、出雲路派、誠照寺派、三門徒派、山元派に分かれている。天台宗は天台宗山門派(比叡山延暦寺)、天台寺門宗(園城寺)、天台真盛宗等に分かれている。真言宗は古義派と新義派に分かれていて、さらに古義派は高野山真言宗、東寺真言宗、真言宗善通寺派、真言宗醍醐派、真言宗御室派、真言宗大覚寺派、真言宗泉涌寺派に分かれている。新義派も真言宗智山派、真言宗豊山派、新義真言宗に分かれている。日蓮宗も本迹一致派と本迹勝劣派に分かれ、さらに一致派は日昭門流、日朗門流、日向門流、日常門流、六条門流、日像門流、不受不施派に分かれ、勝劣派は日什門流、日隆門流、日真門流、日興門流(富士門流)に分かれ、その日興門流も、大石寺門流(日蓮正宗)、日尊門流(要法寺・伊豆実成寺)、日郷門流(保田妙本寺・小泉久遠寺・日向定善寺)、日代門流(西山本門寺)、日妙門流(北山本門寺)、日華門流(富士妙蓮寺)、日仙門流(讃岐本門寺)等に分かれていた。

 

 

□教部省に大石寺を興門派の総本山にして大石寺法主の興門派管長任命を要求した大石寺

 

ところが明治政府は、1872(明治5)103日に、天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗の7宗に一宗派一管長制にするという布達を発し、強圧的な制度にしようとした。つまり明治政府は、行政制度上の統合整理強制によって宗派支配をはかる方針を採った。この宗教政策が、大石寺はもちろんのこと、全仏教各宗派の反発を買い、明治政府の教部省に独立願、異議申立、上申書等が殺到。大石寺も大石寺一本寺独立願を教部省にて提出している。日蓮宗の中では、明治政府の「一宗派一管長制」の政策に乗じて、日蓮宗本迹一致派管長・新井日薩らの「全日蓮門下統合」を目指す画策もあったが、各宗派の反発で実現には至らなかった。

1874(明治7)312日、明治政府は一宗派一管長制を改め、日蓮宗は本迹一致派と本迹勝劣派で管長を置くことが許可され、大石寺門流は本迹勝劣派に組み入れられた。さらに1876(明治9)2月、本迹一致派が日蓮宗と公称。日蓮宗「不受不施派」の再興が許可された。本迹勝劣派は、妙満寺派、八品派、本隆寺派、興門派(日興門流)に分離され、大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、伊豆実成寺、京都要法寺、保田妙本寺、小泉久遠寺の富士門流八本山が「日蓮宗興門派」と公称。しかし大石寺は、「日蓮宗興門派」宗務院が北山本門寺に置かれ、行政上の宗派代表としての「日蓮宗興門派」管長が八本山法主・貫首の輪番制になったことに反発。

これは、大石寺門流僧俗にとってみれば、大石寺法主(貫首)は旧来から依然変わりなく大石寺門流の法主(ほっす)の地位ではあるが、「日蓮宗興門派」管長の地位は大石寺門流以外の他宗派の本山貫首が占めている場合もあるという、信仰上極めて耐え難い事態がつづくこととなった。

管長輪番制によって大石寺法主が「日蓮宗興門派」管長に就任した時期もあったが、大石寺は他の七本山の貫首の管長の下に置かれることを拒否。大石寺は、教部省に大石寺を「日蓮宗興門派」の惣本寺(総本山)にして、大石寺法主を「日蓮宗興門派」管長に任命するように要求。これが通らないと見るや、大石寺の「日蓮宗興門派」からの分離独立を教部省に請願する。これにより「日蓮宗興門派」の中で、大石寺門流と他の七本山の門流との対立が激化していく。これ以降、毎年のように大石寺門流は、教部省・内務省に「日蓮宗興門派」からの分離独立願を提出している。

そして「日蓮宗興門派」の公称から26年後の1900(明治33)9月、大石寺56世大石日応法主の代に、大石寺門流の「日蓮宗興門派」からの分離独立が内務省から認可されて「日蓮宗富士派」と公称。大石寺に宗務院、石山学林(富士学林)が設置される。その12年後の1912(大正1)6月、大石寺57世阿部日正法主の代に、大石寺門流は、「日蓮宗富士派」から日蓮正宗と公称する。

つまり明治政府が現実無視の「一宗一管長制」という強圧的宗教政策を出してから、大石寺門流が「日蓮宗富士派」として独立した管長・宗務院を持つまでの間、大石寺門流・教団と国家権力・明治政府との間に新たな緊張関係が生まれ、大石寺門流の過激折伏体質がエスカレートむしゆく一因になっていったと言えよう。

大石寺56世大石日応1
 

(大石寺56世大石日応法主)

北山本門寺39仁王門
 

(「日蓮宗興門派」宗務院が置かれた北山本門寺)