□折伏布教解禁の明治時代に江戸時代よりも過激折伏体質をエスカレートさせた大石寺門流2
1868(明治1)年の明治維新以降、過激折伏体質をエスカレートしていった大石寺門流だが、具体的にどれだけの布教実績を挙げていたのか。明治維新以降から1945(昭和20)年までの大石寺門流と他宗派・他門流との問答・宗派論争(日蓮正宗で言う“法論”)は以下の通りである。
□1875(明治8)年10月22日、大石寺末寺・大阪蓮華寺講頭・森村平治等と京都要法寺末寺・天満蓮興寺・堺住本寺との間で問答
□1875(明治8)年12月16日、大石寺末寺・堺本伝寺本立講と日蓮宗本迹一致門流妙見朋友講との間で問答
□1876(明治9)年9月、大石寺末寺・京都住本寺信徒・加藤廉三と日蓮宗妙法寺日庸が問答
□1878(明治11)年、大石寺55世下山日布と北山本門寺34代玉野日志が問答
□1879(明治12)年、大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志が問答(霑志問答)
□1882(明治15)年、大石寺本門講と横浜蓮華会(国柱会)が問答(横浜問答)
□1883(明治16)年、大石寺末寺・大阪蓮華寺信徒・荒木清勇が日蓮宗八品派(日隆門流)と問答
□1885(明治18)年4月12日、大石寺末寺・大阪蓮華寺信徒・荒木清勇が日蓮宗信徒・畠山弥兵衛と問答
□1885(明治18)年4月、大石寺門流僧侶とキリスト教徒が神奈川県小田原で公開法論
□1887(明治20)年4月、大石寺尼僧・佐野広謙尼が日蓮宗・京都頂妙寺僧侶と問答
□1890(明治23)年11月、大石寺53世日盛と日蓮宗僧侶・清水梁山が神奈川県横須賀で問答
□1892(明治25)年、大石寺56世・大石日応法主と京都要法寺42祖・驥尾日守が問答
□1893(明治26)年2月4日、大石寺末寺・京都住本寺信徒・加藤道栄と京都要法寺塔中真如院住職・矢田志玄が問答
□1901(明治34)年3月1日、大石寺僧侶・阿部日正(後の大石寺57世法主)が顕本法華宗僧侶・本多日生と公開問答
□1926(大正15)年5月、大石寺末寺・北海道深川宝竜寺住職・渋田慈旭(日宇)と本門法華宗が問答(札幌法論)
□1928(昭和3)年1月、大石寺信徒・神戸独一本門講講頭・増田耕一と日蓮宗・日蓮主義宣伝会が問答
□1929(昭和4)年11月、大石寺信徒・神戸独一本門講講頭・増田耕一と日蓮宗・日本山妙法寺貫首・藤井行勝(日達)が兵庫県神戸市で問答
□1900(明治33)年から大石寺と京都要法寺で、福島県・会津実成寺、妙福寺、宮城県仙台・仏眼寺、日浄寺の末寺寺跡問題が起こり、1943(昭和18)年に最終的に大石寺(日蓮正宗)に帰属。
(富士学林発行「日蓮正宗富士年表」より)
□明治・大正・昭和初期の62年間で77ヶ寺のハイペースで新寺院・教会所を建立した日蓮正宗
それでは明治維新以降から1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦までの間の大石寺門流(日蓮正宗)の新寺建立は下記の通りである。
□金沢・妙喜寺(1879)□名古屋・興道寺(1879)□神戸妙本寺(1880)□大阪歌垣村教会所((1880)
□福島妙法寺(1880)□伊那・信盛寺(1880)□名古屋・妙道寺(1881)□静岡・妙盛寺(1881)
□大阪川西教会所(1882)□鳥取・日香寺(1882)□琴平・福成寺(1882)□久留米・霑妙寺(1884)
□福島・広布寺(1884)□兵庫(今は広島へ移転)興福寺□小田原・弘道院□郡山・寿海寺(1885)
□徳島第21教会所(1887)□行橋・正妙寺(1888)□栃木教会所(1889)□いわき市・大華寺(1890)
□加東・大蓮寺(1890)□小牧・妙経寺(1891)□東京京橋教会所(1891)□北九州・法霑寺(1892)
□品川・妙光寺(1892)□富士・正光寺(1893)□函館・正法寺(1893)□福岡・立正寺(1895)
□京都・九条住本寺(1895)□北海道愛別町・法宣寺(1896)□栃木南薩村教会所(1896)
□東京・法道院(1898)□静岡県富士宮教会所(1901)□埼玉県岩槻第23号教会所(1903)
□長崎・正霑寺(1905)□北海道深川・宝竜寺(1905)□北海道江別第25号教会所(1906)
□つくば・本証寺(1906)□横浜・久遠寺(1907)□北九州・妙境寺(1908)□東京・白蓮院(1909)
□佐世保・法光寺(1909)□宮城県古川(大崎市)一乗寺(1909)□香川三豊・城山教会所(1909)
□大阪泉尾教会所(1911)□土浦・本妙寺(1912)□奈良・寧楽寺(1913)□須賀川・広宣寺(1915)
□麻布潜竜閣(1916)□三豊・城山寺(1916)□瀬戸・天晴寺(1917)□札幌・日正寺(1918)
□佐賀松浦教会所(1920)□高島・妙静寺(1920)□小樽・妙照寺(1920)□三豊・立正寺(1920)
□横浜・東神奈川教会所(今の応顕寺)(1921)□いわき・法船寺(1921)□山口防府教会所(1922)
□京都京丹波・真妙寺(1922)□大分・妙祥寺(1924)□樺太真岡町・樺太教会所(1925)
□豊橋・勧持院(1926)□下関・妙宝寺(1928)□中野教会所歓喜寮(今の昭倫寺)(1931)
□中華民国上海教会所(1931)□西宮教会所(1931)□静岡教会所(1931)□大阪・広宣寺(1932)
□東京・妙国寺(1932)□北九州・聖霑寺(1932)□東京大森・城南教会所(1932)
□東京目黒・妙真寺(1933)□富士宮・奨信閣(1940)□東京・青山教会所(1940)
□久慈・東光寺(1940)□西宮・正蓮寺(1940)
(富士学林発行「日蓮正宗富士年表」より)
明治・大正・昭和の太平洋戦争開戦直前の1879年から1940(昭和15)年までの62年間で、大石寺門流(日蓮正宗)は、77ヶ寺の新寺院・教会所を建立している。この77ヶ寺の中には、現在、存在していないものが20ヶ寺あるが、それを差し引いたとしても57ヶ寺。このペースは、現在の日蓮正宗の新寺院建設のペースをはるかに上回るハイペースである。これだけの新寺院・教会所を建立したということは、それだけ檀信徒数が増加したということたが、それでは具体的に大石寺門流(日蓮正宗)は、この間にどれだけ檀信徒数を増加させたのか。
1884(明治17)年、大石寺55世下山日布法主は、大石寺本末寺院所属の檀信徒数を10619戸であると大教院に報告している。(富士学林発行「日蓮正宗富士年表」p367)
宗創和合時代に創価学会が発行した「仏教哲学大辞典」によれば、「国民年鑑・昭和17年度版」に載っている統計として、日蓮正宗の寺院数75、僧侶数212人、檀信徒数87041人という数字を列挙している。
(「仏教哲学大辞典」p225)
□明治・大正・昭和初期に檀信徒を56%も増加させるほど過激折伏体質を持っていた日蓮正宗
それでは明治17年の大石寺本末寺院所属檀信徒数10619戸とは、人数にしたらはたして何人になるのか。「府藩県三治制下の日本の人口統計」に載っている「明治3年調 族籍別戸数・人口
(庚午年概算, 藩々租税取調, 統計集誌)」によれば、次の数字が載っている。
「戸数6,551,426、壬申戸籍本籍人口33,110,825人」
この統計からすると1戸当たりの人口は5.05人になる。これを明治17年の大石寺本末寺院所属檀信徒数10619戸にそのままあてはめると、当時の大石寺檀信徒数は53668人ということになる。そうすると明治17年(1884)から昭和17年(1942)の58年間で、大石寺(日蓮正宗)檀信徒数は、53668人から87041人に増加。何と56.8%も増加している、ということになる。
この時代は、庶民生活がめまぐるしく変化した時代である。1872年に新橋・横浜に鉄道開通。1874年に神戸・大阪に鉄道開通。1877年に京都・大阪に鉄道開通。1889年に東海道線・東京~神戸が全通。1901年に青森・下関の鉄道全通。1906(明治39)年には最急行が登場、1909(明治42)年には新橋 - 神戸間が12時間50分かかっていた。1921(大正10)年に特急列車による東京 - 神戸間の所要時間は11時間45分となった。1934(昭和9)年には丹那トンネルが開業し、特急「燕」の東京 - 神戸間は8時間37分となった。他方では、1882年に銀座に電灯が設置。1871年に郵便制度が確立。1877年に電話が開通。1895年に京都で路面電車が開業。1898年に自動車が日本に登場した。このように文明がめまぐるしく発達し、庶民生活も激変していったのだが、現代と比べれば、比較にならないほど不便な時代であることに変わりはない。
1870年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊され、1872年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、『郵便報知新聞』などが創刊。1874年に『讀賣新聞』、1879年に『朝日新聞』が創刊。「日本史図録」の統計によれば、読売新聞、朝日新聞、東京日日新聞が発行部数を伸ばしたのは1923年9月1日の関東大震災以降のようである。
こういう時代に檀信徒数を53668人から87041人に56.8%も増加させ、77ヶ寺の新寺院・教会所を建立しているわけだから、大石寺門流(日蓮正宗)の折伏・布教活動はかなり過激なものであったことがわかる。大石寺門流(日蓮正宗)は、明治・大正・昭和初期の時代に、江戸時代よりもさらに過激折伏体質をエスカレートさせたのである。
(大正時代の大石寺御影堂)
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