□大石寺法主の評価は創価学会の牧口常三郎・戸田城聖・北条浩よりも「下」だった永井藤蔵氏

 

日蓮正宗の信徒の中では総講頭に次ぐナンバー2の地位である日蓮正宗法華講大講頭の職にあり、全国・海外の日蓮正宗寺院に所属する法華講支部の連合体組織である日蓮正宗法華講連合会の前の委員長だった永井藤蔵氏が今年1020日、84才で死去した。戒名は大石寺68世早瀬日如法主から直々に下賜された。法主が下賜した戒名は「慈行院法徳日藤居士」。日蓮正宗の在家信徒の戒名の最高位は、大石寺法主が下賜する日号・大居士号が入った戒名。ところが永井藤蔵氏の戒名は、日号は入っていたが、大居士号ではなく、ただの居士号だった。

(日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」平成2812月号より)

永井藤蔵死去・大日蓮1


永井藤蔵死去・大日蓮2


永井藤蔵死去・大日蓮3


12大日蓮
 

これで比較したくなるのが、大石寺法主が下賜した歴代の創価学会会長の戒名。牧口常三郎は「冷然院感得日常大居士」。戸田城聖は「大宣院法護日城大居士」。北条浩は「宣正院浩徳日基大居士」。いずれも日号・大居士号が入った最高位の戒名だが、永井藤蔵氏の戒名は、日号は入っていたが、大居士号はなし。つまり日蓮正宗法華講大講頭、日蓮正宗法華講連合会委員長を務めた永井藤蔵氏に対する大石寺法主の評価は、牧口常三郎・戸田城聖や、あの「北条報告書」や「惰眠をむさぼること28年」という題名の日蓮正宗批判論文を書いた北条浩よりも、下だったということに他ならない。それにしても、法華講員は、大石寺法主から無理難題の折伏誓願と称する、過酷な布教ノルマを押しつけられ、「入信するまで折伏をつづけろ」と、ストーカー折伏まで命令されている。ほとんど大石寺法主の馬車馬のように酷使されているにもかかわらず、大石寺法主の評価が、牧口常三郎・戸田城聖・北条浩よりも「下」というのは、なんともお気の毒の極みである。

永井藤蔵氏は、茨城県土浦市の日蓮正宗寺院・本妙寺の信徒で、先祖代々からの法華講員。日蓮正宗の内部情報によれば、永井藤蔵氏の自宅の仏壇には、板曼荼羅本尊と日蓮の御影像(木像)が祀られている、ということである。日蓮正宗では、1991(平成3)年以降の日蓮正宗vs創価学会の、いわゆる「宗創戦争」以降、法華講連合会役員等に板曼荼羅本尊を下賜してきている。ところが、永井藤蔵氏の場合は、板曼荼羅本尊に加えて日蓮木像まで下賜されていたわけで、これはさしずめ寺院の本堂並み。いくら先祖代々の法華講員とは言っても、これは破格の好待遇である。それにしてもなぜ永井藤蔵氏は、ここまで破格の好待遇を受ける身になり得たのか。

それは、1970(昭和45)年、永井家に先祖代々所蔵してきた、「弘安三年太歳庚辰二月日」の脇書が入った「日蓮直筆」を自称する曼荼羅本尊を、大石寺に奉納したことがあげられる。大石寺に「日蓮直筆」自称曼荼羅本尊を奉納した在家・俗人は、江戸時代に日仙授与本尊と称される「日蓮直筆」自称曼荼羅本尊を奉納した六代将軍・徳川家宣の正室・天英院以来のことである。

 

 

□「日蓮直筆」自称本尊を大石寺に奉納した功で法華講連合会委員長に抜擢された永井藤蔵氏

 

ただし、「弘安三年太歳庚辰二月日」の脇書が入った「日蓮直筆」を自称する曼荼羅本尊は、あくまでも日蓮正宗が「日蓮直筆」を自称しているだけで、この曼荼羅本尊は、立正安国会編纂「日蓮大聖人御真筆御本尊集」には収録されておらず、日蓮正宗以外の学者の鑑定、公的な鑑定等、一切行われていない。この曼荼羅は、日蓮正宗以外では、「日蓮真筆」とは認定されていない。それは、天英院が常泉寺に奉納した日仙授与本尊と称される「日蓮直筆」自称曼荼羅本尊も同じ。

ところが、大石寺59世堀日亨は、「弘安三年太歳庚辰二月日」の脇書が入った曼荼羅本尊を、「日蓮真筆本尊」だとして、自らが編纂した「富士宗学要集」8巻に載せている。「富士宗学要集」8巻には、「常陸永井藤蔵」家所蔵の曼荼羅と書いてある。日蓮正宗以外では、「日蓮真筆」とは認定されていない「弘安三年太歳庚辰二月日」の脇書が入った曼荼羅本尊を、大石寺59世堀日亨がなぜ「日蓮真筆」と認定したのか。理由は全く不明である。堀日亨も、大石寺法主を経験した身であるから、おそらく、日蓮正宗に偏った「甘い」見方をしていたのであろう。

2日蓮・日興1
 

(大石寺59世堀日亨編纂「富士宗学要集」8p179より)

永井藤蔵氏は、「大日蓮」平成2812月号の報道によれば、永井藤蔵氏は1932(昭和7)年出生。1964(昭和39)年、若干32才で本妙寺総代に任命。1980(昭和55)年、48才で法華講本妙寺支部講頭に任命される。法華講連合会では、東京地方部庶務部長を経て1985(昭和60)年に北関東地方部長、2005(平成17)年、茨城地方部長に任命される。2004(平成16)年に法華講大講頭に任命。柳沢喜惣次氏の後任として大石寺68世早瀬日如法主より法華講連合会委員長に任命された。

1979(昭和54)年の大石寺67世阿部日顕法主の登座以降、法華講連合会委員長、副委員長、幹事は、全国法華講支部の中でも、ダントツの折伏・布教実績を挙げた法華講法道院支部、本行寺支部から任命されている。三代委員長の阿部唯七郎氏は法道院支部、四代委員長の柳沢喜惣次氏は本行寺支部である。ところが、本妙寺支部の永井藤蔵氏の五代委員長任命は、意外な人事と受け取られた。なぜなら、本妙寺支部の折伏・布教実績は、法道院支部、本行寺支部と比べて、大きく見劣りがするからである。ではなぜ、本妙寺支部の永井藤蔵氏が、法華講連合会委員長に任命されたのか、というと、それは、柳沢喜惣次氏が法華講連合会委員長が退任したとき、後継候補だった法道院支部の石毛寅松副委員長が体調不良のため退任。法道院支部、本行寺支部に、委員長候補が見あたらず、急遽、ワンポイントリリーフとして、自宅の仏壇には、板曼荼羅本尊と日蓮の御影像(木像)が祀られている、一枚も二枚も格上の永井藤蔵氏が抜擢されたのではないか、というのが、専らの評判である。永井藤蔵委員長の下で、法華講連合会企画部長で、本行寺支部の星野浩一郎氏が副委員長に任命。永井藤蔵氏が委員長を退任した後、星野浩一郎氏が委員長に任命され、副委員長には、法華講連合会編集部長で、法道院支部の篠田泰夫氏が任命された。つまり、永井藤蔵氏がワンポイントリリーフで、その後は、法華講連合会人事は、従前の法道院支部、本行寺支部の「たらい回し体制」に復帰している。

そういうことになると、永井藤蔵氏が法華講大講頭・法華講連合会委員長に抜擢されたのは、1970(昭和45)年、「弘安三年太歳庚辰二月日」の脇書が入った「日蓮直筆」自称曼荼羅本尊を、大石寺に奉納したことが大きかったと言えよう。しかしそれもこれも、日蓮正宗に偏った「甘い」見方をしていた大石寺59世堀日亨の見解に助けられたわけだから、さぞや永井藤蔵氏は、生前、大石寺59世堀日亨を崇めていたことだろう。

59世日亨2
 

(日蓮正宗に偏った「甘い」見方をしていた大石寺59世堀日亨)