■検証73・「日蓮本仏義」偽作の動機3・信者からの金銭収奪システムを確立するため2

 

□「戒壇大本尊」「日蓮本仏義」偽作で湯之奥金山の利権独占を狙った大石寺9世日有

 

先に、一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、江戸時代初期の寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されて以降のことであると書いたが、その後の江戸時代末期においても、大石寺の信者が北山本門寺に参詣していたことが文献に残っている。

「戒壇の大本尊」大石寺9世日有偽作を告発した日浄記を記していることで有名な「大石寺誑惑顕本書」には、次のような記述が見える。

「千部法雨の節、大石寺相家の者数人参詣に来居り候間、時の貫主日信上人、其の邪僧等が妄語たる事を説法のついでに示して鉄砲本尊を開帳致しければ、大石寺相家の者共、昔より年々拝する真の鉄砲本尊を拝見し奉り、色を失い首を聚め、さては我等は欺かれ候か、浅ましき事哉と、つぶやき合てけり」(『大石寺誑惑顕本書』p45)

千部法雨大石寺相家
 

「大石寺誑惑顕本書」とは北山本門寺の文献だが、大石寺のことを「相家」(あいや)と言っていることが面白い。「相家」(あいや)とは「国史大辞典」によれば

「同じ家屋敷を分割相承した家仲間。相屋とも書く。多くは血縁分家の際の住居分与で生じたから、それは同族団(本家・分家仲間)の特殊形態とみられる。しかし時には分割売却によるアイヤもあった。」と載っている。江戸時代においては、すでに大石寺と北山本門寺の関係は分裂・断絶していたが、北山本門寺が大石寺を本家・分家仲間を意味する「相家」と呼び、大石寺の信者が北山本門寺の法要に当たり前のように参詣しているのである。江戸時代の末期においてすらこうであったわけだから、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が整備される以前においては、なおさらこうであったことは明らかである。すなわち、湯之奥金山の金山衆も、北山本門寺を菩提寺としていたとしても、北山本門寺にも参詣すれば「相家」の大石寺にも参詣していたことは、容易にわかる。

法華の信者である金山衆たちは、甲斐国の人たちは主に身延山久遠寺に参詣し、駿河国の人たちは主に北山本門寺、大石寺などの富士五山に参詣し、供養した。寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備される以前は、寺院に信者名簿があったわけではなく、機関紙があったわけではなく、講組織が今のように整備されていたわけではなく、御書全集があるわけでもなく、それどころか信者の大半は、文字すらも読めなかった。室町時代の頃、信者の大半は、半農・半商の武士が多く、日々は農作業やら、売り買いやら、戦さで多忙であった。法華講などの講組織は、関東・甲信・駿河・東北にはあったようだが、今のように全ての大石寺門流の信者を網羅する組織が整備されていたわけではなく、大石寺門流の信者も勤行や布教をしていたわけでもなく、教学にもほとんど縁がなかった。

 

 

□大石寺が湯之奥金山の金の利権を失い極貧寺に再転落することを恐れた大石寺9世日有

 

室町時代、戦国・安土桃山時代のころの布教の主体は僧侶であり、僧侶が自坊の持仏堂に本尊を祀って勤行をし、外へ出て布教活動を行っていた。寺院と信者の関係において、信者はほとんど供養するだけだったと言える。大石寺で客殿を創建して、信者を集めて法要を行ったのは大石寺9世日有が最初である。大石寺9世日有は、金山衆から金の供養を受けていたが、金山衆は大石寺の大石寺9世日有だけに供養していたわけではなく、身延山久遠寺にも供養し、北山本門寺にも供養していた。そこで大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏義」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作して、金山衆の金の供養の独占を狙ったわけである。

「大石寺には日蓮大聖人からの血脈相承による『戒壇の大本尊』が格蔵されている。大石寺だけが日蓮大聖人の唯一正統の門流である。だから大石寺に供養すれば功徳がある」

今風の日蓮正宗的に言い方だと、さしずめこんなところだろうか。大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作し、大石寺に客殿を創建して、大石寺門流の信者を集めて法要を行い、甲斐国(山梨県)杉山に有明寺を建立して、金山衆を大石寺につなぎ止めようとした。

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏義」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作することによって、大石寺で金山衆の金の供養を独占することを狙ったのである。

日蓮正宗大石寺9世法主である日有は、大石寺から北へ約45キロほど上った山梨県南巨摩郡身延町の毛無山を中心とした金山「湯之奥金山」から産出されていた、「金」(きん)を手に入れていた。ここの金を大石寺9世日有に差し出して供養したのは、湯之奥金山の掘間を所有し、操業・経営し、商業活動までも行っていた「金山衆」(かなやましゅう)と呼ばれていた人たちで、彼等の大半が法華の信者たちであり、しかも大石寺や北山本門寺を菩提寺とする富士門流の信者が多かったのである。彼等、金山衆たちは、金の採掘・精錬・加工などにおいて、実に高度な技術をもち、金山から産出した金を売買し・商業活動を行うことによって、実に裕福な生活をしていた人たちであった。したがって、大石寺9世日有の代において大石寺は、湯之奥金山から産出されて供養された金によって、経済的には潤っていた時代であった。それなのに、なぜ大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」「日蓮本仏義」を偽作・発明してまで、大石寺門流の金銭収奪システムの確立を急いだのだろうか。

それは、湯之奥金山が発見されたのは1400年代初頭のことで、大石寺9世日有の代においては、甲斐国(山梨県)の戦国大名・武田氏も駿河国(静岡県)の戦国大名・今川氏も、まだこの湯之奥金山の存在を知らず、武田氏や今川氏の支配は、湯之奥金山のある毛無山の山奥にまでは及んでいなかった。だからこそ、「金山衆」(かなやましゅう)たちが実質的に湯之奥金山の金の利権を独占して、金が大石寺9世日有にも供養されていたと言える。したがって、大石寺9世日有は、いずれ湯之奥金山の存在を甲斐の武田氏や駿河の今川氏が知るようになれば、大石寺は湯之奥金山の金の利権を失い、大石寺6世日時~8世日影の代の時のように再び極貧寺に転落することを恐れた、ということだ。そしてまだ大石寺が湯之奥金山の金の経済力で潤っているうちに、大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステム確立を急いだということに他ならない。大石寺9世日有は、大石寺8世日影のもとで、幼少のころに出家得度しているが、大石寺8世日影の代から大石寺9世日有が大石寺法主に登座して間もないころは、まさに大石寺が極貧状態の時代であった。極貧の生活というと、大概は毎日の食事も食うに困るくらいの生活を味わうこと。中世のころであれば、僧侶自らが田を耕したり、畑を耕作するなどの農作業に従事して、食べ物を得ていた時代である。しかし人間、一度たりとも金の利権とか、豪華・栄華な生活を味わってしまうと、昔の貧しかったころには戻りたくないと考えるものだ。こういった人情は、昔も今も変わらない。

しかし大石寺9世日有在世の代は、甲斐の武田氏も駿河の今川氏も、湯之奥金山の金の産出については全く知らなかった。毛無山のある甲斐国(山梨県)の戦国大名・武田氏が、湯之奥金山を知ったのは、1541(天文10)年、武田晴信(信玄)が甲斐国の領主になってからのことである。大石寺9世日有が死去したのが1482(文明14)929日のことだから、それから数えても60年が経過していた。大石寺法主は、13世日院の代になっていた。湯之奥金山の存在に気づいた武田信玄は、1569(永禄12)年、駿河国に武力侵攻して大石寺、北山本門寺に攻め入り、武力によって、大石寺から湯之奥金山の金の利権を取り上げてしまった。これ以降、武田信玄は、甲斐国の金の利権を独占し「甲州金」と呼ばれる、日本史上はじめて金貨による貨幣制度をつくり上げた。金の利権を失った大石寺は、大石寺9世日有の死後87年後にして、まさに大石寺9世日有がつくり上げた「金銭収奪システム」のみによって生き長らえていくことになるのである。

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

戒壇大本尊2大正4年由井本2
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)