■検証73・「日蓮本仏義」偽作の動機3・信者からの金銭収奪システムを確立するため3

 

□湯之奥金山の経済力で潤う時代に信者から金銭収奪体制確立を急いだ大石寺9世日有

 

日蓮正宗大石寺九世法主である日有は、大石寺から北へ約45キロほど上った山梨県南巨摩郡身延町の毛無山を中心とした金山「湯之奥金山」から産出されていた、「金」(きん)を手に入れていた。ここの金を日有に差し出して供養したのは、湯之奥金山の掘間を所有し、操業・経営し、商業活動までも行っていた「金山衆」(かなやましゅう)と呼ばれていた人たちで、彼等の大半が法華の信者たちであり、しかも大石寺や北山本門寺を菩提寺とする富士門流の信者が多かったのである。彼等、金山衆たちは、金の採掘・精錬・加工などにおいて、実に高度な技術をもち、金山から産出した金を売買し・商業活動を行うことによって、実に裕福な生活をしていた人たちであった。

したがって、日有の代において大石寺は、湯之奥金山から産出されて供養された金によって、経済的には潤っていた時代であった。それなのに、なぜ大石寺9世日有は、「日蓮本仏義」を偽作・発明してまで、大石寺門流の金銭収奪システムの確立を急いだのだろうか。

それは、湯之奥金山が発見されたのは1400年代初頭のことで、大石寺9世日有の代においては、甲斐国(山梨県)の戦国大名・武田氏も駿河国(静岡県)の戦国大名・今川氏も、まだこの湯之奥金山の存在を知らず、武田氏や今川氏の支配は、湯之奥金山のある毛無山の山奥にまでは及んでいなかった。だからこそ、「金山衆」(かなやましゅう)たちが実質的に湯之奥金山の金の利権を独占して、金が大石寺9世日有にも供養されていたと言える。したがって、大石寺9世日有は、いずれ湯之奥金山の存在を甲斐の武田氏や駿河の今川氏が知るようになれば、大石寺は湯之奥金山の金の利権を失い、大石寺6世法主日時~8世法主日影の代の時のように再び極貧寺に転落することを恐れた、ということだ。そしてまだ大石寺が湯之奥金山の金の経済力で潤っているうちに、大石寺が信者から未来永劫にわたって金銭を収奪していくシステム確立を急いだということに他ならない。

大石寺9世日有は、大石寺8世日影のもとで、幼少のころに出家得度しているが、大石寺8世日影の代から大石寺9世日有が大石寺法主に登座して間もないころは、まさに大石寺が極貧状態の時代であった。極貧の生活というと、大概は毎日の食事も食うに困るくらいの生活を味わうことになる。中世のころであれば、僧侶自らが田を耕したり、畑を耕作するなどの農作業に従事して、食べ物を得ていた時代である。しかし人間、一度たりとも金の利権とか、豪華・栄華な生活を味わってしまうと、昔の貧しかったころには戻りたくないと考えるものだ。こういった人情は、昔も今も変わらない。大石寺9世日有とて、法主登座以前の極貧状態の生活は、二度と味わいたくなかったことだろう。

 

 

□日蓮正宗大石寺9世法主日有が構築した金銭収奪システムで生きながらえてきた大石寺

 

大石寺9世日有の経済力の源泉は、有力者の帰依や信者の供養によるものではなく、湯之奥金山から産出されていた金であった。湯之奥金山で金の採掘・経営を行っていた金山衆は、いかなる信仰をしていたのか。湯之奥金山博物館では、金山衆のほとんどが「法華の信者であったことが理解される」と結論づけている。ただ湯之奥金山博物館でも「日蓮宗」とか「富士門流」とかというふうに特定せずに「法華の信者」と言っていることは大きなポイントである。

これはどういうことかというと、一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからで、これ以降、武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院(不受不施派を除く檀那寺、藩によっては神社もあった)に属することが義務となり、その情報は全て寺院に把握されたこと以降においてである。

つまり、江戸時代の日本で宗門改(宗門人別改)によって宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)という民衆調査のための台帳が寺院に作成され、この宗門人別改帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったわけである。ではそれ以前は、どうだったかというと、浄土宗・浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗、律宗、南都六宗ぐらいの区別は一般庶民でも知っていただろうが、日蓮宗だからといって身延山久遠寺のみに参詣していたわけではなく、身延山にも参詣・供養する一方で、大石寺にも供養し、北山本門寺にも供養していたのである。とは言っても甲斐国(山梨県)は身延山久遠寺が有力であり、駿河国(静岡県)は富士門流が有力であったから、甲斐国の人たちは主に身延山に参詣し、駿河国の人たちは主に富士門流の寺院に供養していたと考えられる。江戸時代に湯之奥の中山金山に建てられた石塔や茅小屋金山に建てられた墓石に「富士北山村」の文字が見えるものがあることから、湯之奥金山博物館では、金山衆の菩提寺は富士宮市北山の北山本門寺であったと特定している。湯之奥金山博物館の展示では、これは湯之奥金山の金山衆が静岡県富士宮市と深い関わりがあったことを示唆していると、している。

湯之奥金山の金山衆が大石寺9世日有に「金」を供養する、いわば最大のスポンサーだった。

その金山衆たちは、法華の信者ではあったが、供養する宗派は大石寺だげとは限らない。北山本門寺になびくときもあれば、西山本門寺になびくときもある。小泉久遠寺になびくときもあれば、身延山久遠寺になびくときもある。身延山久遠寺は、日蓮一門の宗祖・日蓮の正墓があり、多くの人が参詣する大寺院であり、北山本門寺にも日興門流の祖・日興の正墓があり、中心堂宇として御影堂があり、こちらもたくさんの参詣人を集めていた。しかし大石寺はどうかというと、根本本尊もなく、さしたる教学も確立されているわけでもない。日蓮、日興、日目のいずれの遺骨・正墓があるわけでもない。ということであれば、法主である大石寺9世日有からすれば、湯之奥金山の金山衆の「金」の供養が身延山久遠寺や北山本門寺等になびくのを防ぎ、なんとしても大石寺で独占しようと考える。そのためには、大石寺に根本本尊が必要であり、大石寺教学を確立する必要がある。そこで大石寺9世日有が偽作したのが「戒壇の大本尊」「日蓮本仏義」「唯授一人血脈相承」であったわけである。

そしてもうひとつの重要なポイントがある。それは、大石寺9世日有が在世だった時代は、甲斐国の戦国大名・武田氏も駿河国の戦国大名・今川氏も、湯之奥金山の金の産出については全く知らなかったのである。毛無山のある甲斐国(山梨県)の戦国大名・武田氏が、湯之奥金山に気づいたのは、何と1541(天文10)年、武田晴信(信玄)が父・信虎を追放して甲斐国の領主になってからのことである。大石寺9世日有が死去したのが1482(文明14)929日のことだから、それから数えても60年が経過していた。大石寺法主は、大石寺13世日院の代になっていた。湯之奥金山の存在に気づいた武田信玄は、1569(永禄12)年、駿河国に武力侵攻して大石寺、北山本門寺に攻め入り、武力によって、大石寺から湯之奥金山の金の利権を取り上げてしまった。これ以降、武田信玄は、甲斐国の金の利権を独占し「甲州金」と呼ばれる、日本史上はじめて金貨による貨幣制度をつくり上げた。金の利権を失った大石寺は、大石寺9世日有の死後87年後にして、まさに大石寺9世日有がつくり上げた「金銭収奪システム」のみによって生き長らえていくことになるのである。

物語抄・武田兵乱
 

(永禄13年の武田信玄軍の大石寺侵攻を記す「日有御物語抄」大石寺59世堀日亨編纂「富士宗学要集」1p196197)

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)