■検証74・「日蓮本仏義」偽作の動機4・大石寺を「事の戒壇」にするため1

 

□戒壇に祀る本尊は本仏でなければならず「戒壇大本尊」=「日蓮」=「本仏」でなければならない

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有(14021482・法主在職1419146714721482)が「百六箇抄」を偽作した4番めの動機は、「日蓮本仏義」を偽作することによって、大石寺を本門「事の戒壇」と定義づけるためである。これは明確に、大石寺の「法華本門・事の戒壇」を、比叡山延暦寺の「大乗戒壇」「法華迹門の戒壇」に対抗し、大石寺の「事の戒壇」を比叡山延暦寺の「大乗戒壇」よりも優越した戒壇にするという大石寺9世日有の意図がある。「戒壇」に祀る本尊は、衆生を成仏に導く「本仏」でなければならず、そのためには大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」=「日蓮」=「本仏」でなければならない。だから「日蓮本仏義」を偽作しなくてはならなかったのである。

そもそも「戒壇」とは、戒律を授ける(授戒)ための場所を指すのであるが、「戒壇」で授戒を受けることで出家者が正式な僧侶・尼として認められることになる。日本に仏教が伝わった当時の戒律は、不完全なもので、当時、出家僧侶は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない私度僧が多くいた。又、出家僧侶といえど修行もせず堕落した僧が多かった。そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えら、この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。そもそも日本への仏教伝来以降、飛鳥・奈良地方に建立された南都六宗である法相宗(興福寺・薬師寺・法隆寺) 、倶舎宗(東大寺・興福寺) 、三論宗(東大寺南院) 、成実宗(元興寺・大安寺) 、華厳宗(東大寺) 、律宗(唐招提寺)の寺院とは、朝廷、天皇、皇族、公家・貴族が建てた、いわゆる「官寺」であり、僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒した官寺の僧侶のみが、朝廷から僧侶として認められたのである。その後、平安時代に、朝廷公認の仏教は、伝教大師最長が開いた天台宗と弘法大師空海が開いた真言宗の二宗が加わり、南都六宗とを加えて「八宗」と呼ばれるようになる。当時の日本では、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は、伝教大師最澄が朝廷の勅許で建立した大乗戒壇の比叡山延暦寺と、延暦寺以前からある奈良・東大寺、唐招提寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺をはじめとする官寺の戒壇のみ。朝廷公認の宗派とは、官寺の南都六宗に、伝教大師の天台宗と弘法大師の真言宗を加えた八宗のみである。さらにもうひとつ言うと、天皇や上皇・法皇といった「治天の君」への奏請は、「伝奏」(てんそう)と呼ばれる官職が司っていた。

もちろんこれらの奏請には、諫暁や申状等も当然のことながら含まれる。しかも天皇や上皇・法皇といった「治天の君」への奏請は誰でも彼でもできるのではなく、親王・王・法親王といった皇室・皇族、摂政・関白等々に就いている摂家などの公家、征夷大将軍、右大将といった官職に就いている武家、そして朝廷公認の寺院・神社のみなのである。

 

 

□大石寺を「迹門・大乗戒壇」比叡山延暦寺をも凌ぐ「本門事の戒壇」にするため

 

「伝奏」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E5%A5%8F

「伝奏(てんそう)とは、院政期から幕末にかけて公家政権(朝廷)内に置かれた役職。元来は治天の君(上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当したが、後に天皇親政時にも設置されるようになった。」「伝奏の概要 院政成立期には院近臣や上皇に仕える女房が奏聞(天皇・上皇に報告・上奏を行う)や伝宣(天皇や上皇の勅旨を伝達する)の役目を務めていたが、後白河上皇が院政を行った12世紀後期より、奏聞や伝宣を専門的に行う役職として伝奏が置かれるようになり、後嵯峨上皇が院政を行った13世紀中期に制度として確立した。この時期の伝奏は2名前後を定員として弁官や職事蔵人を経験した能吏を院宣によって補任する例であった。伝奏は同じく能吏が任命された院の評定衆を兼務する者が多く、訴訟・行政実務を担当する奉行を統括し、奉行からの報告を必要に応じて上皇に報告し、上皇から政務に関する院宣が出されると、伝奏は奉行にその内容を伝え、必要によっては直接相手先に内容を伝える場合もあった。鎌倉時代末期に伏見天皇や後醍醐天皇が親政を行った際にも形骸化していた既存の太政官組織を用いず、伝奏を補任して院の伝奏と同じようなことを行わせた。この時期に専任の寺社伝奏の設置など伝奏に担当部門を設ける動きが見られる。南北朝時代に入ると、奉行の職務を伝奏が行うようになり、また足利義満が将軍でありながら院別当などの朝廷内部の要職を兼ねると、鎌倉時代以来の関東申次→武家執奏は廃止され、伝奏が上司である院別当(将軍)と上皇もしくは天皇の間の連絡を務め、時には院別当に代わって奉書を出すようになる。義満を継いだ足利義持は父の朝廷政策は否定したものの、院別当の地位は保持して伝奏との関係を保った。やがて、その関係は武家(幕府)担当の専任伝奏である武家伝奏へと発展していくことになる。江戸時代には定員2名の武家伝奏が設置され、幕府の意向を朝廷内部に徹底させる役割を果たした。この他にも宮家や寺社などを担当する伝奏が個々に設置され(例:賀茂伝奏など)、一種の職として世襲される場合もあった。また、即位や改元、災害などに際して臨時の伝奏が置かれる場合もあった。」とあります。

「古語辞典」によれば「伝奏」とは「宮中で親王・摂家・諸社寺・武家などからの奏請を、天皇や上皇に取り次ぐ職」とある。「国語辞典」によれば「伝奏」とは

「1 取り次いで奏上すること。2 平安後期以降の朝廷の職名。親王・摂家・武家・社寺などの奏請を院や天皇に取り次ぐことをつかさどった。その中でも室町時代以降の武家伝奏は、特に江戸時代において公武間の意思の伝達にあたる重職であった。」

「日本大百科全書」によれば「伝奏」とは

「取次ぎ奏聞(そうもん)することをつかさどる役職。院伝奏はすでに白河(しらかわ)院政期(10861129)にみえるが、天皇のために置かれたのは建武(けんむ)政権(133336)のときがその初めである。伝達奏聞の対象により、武家伝奏、寺社伝奏などの別があり、即位、改元、凶事などにも臨時にその伝奏を置くことがあった。江戸期には武家伝奏は関白に次ぐ要職であり、朝廷と幕府の間の交渉をつかさどることをおもな職務とし、さらに朝廷の表向(おもてむき)・口向(くちむき)の要務や寺社からの奏請の取次ぎにも携わった。定員は2人で、納言(なごん)・参議のなかから補された。なお寺社伝奏には、南都伝奏、神宮伝奏、賀茂(かも)伝奏などがあった」

とある。伝奏がいたのは、朝廷、室町幕府、江戸幕府だけではない。例えば、1260(文応元年)に、日蓮が「立正安国論」を鎌倉幕府前執権・得宗の北条時頼に上奏したときも、宿屋入道光則がこれを伝奏している。日蓮が、直接、北条時頼に提出したわけではないのである。

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

根本中堂・本師薬師如来1
 

(比叡山延暦寺発行「比叡山根本中堂」に載っている根本中堂の本尊・薬師如来像)