■検証75・「日蓮本仏義」偽作の動機4・大石寺を「事の戒壇」にするため2

 

□自らの申状の伝奏を私度僧同然に扱われて門前払いされた大石寺9世日有の屈辱1

 

天皇や上皇・法皇といった「治天の君」への奏請は誰でも彼でもできるのではなく、親王・王・法親王といった皇室・皇族、摂政・関白等々に就いている摂家などの公家、征夷大将軍、右大将といった官職に就いている武家、そして朝廷公認の寺院・神社のみである。その朝廷公認の寺院・神社の中の仏教寺院とは、官寺の南都六宗に、伝教大師の天台宗と弘法大師の真言宗を加えた八宗のみ。日蓮宗関連では、日蓮の入滅に臨んで、日蓮から直々に枕元に呼ばれ、京都開教を遺命された日像が開山になっている京都妙顕寺が、日蓮宗では唯一、勅願寺になっている。

日像は、1294(永仁2)年、日蓮の京都布教の遺命を果たすべく、京都に上洛。京都の街角にて辻説法を行い、たちまち京都の町衆から帰依を受けた。しかし比叡山延暦寺等々から排斥を受け、1307年(徳治2年)から1321年(元亨元年)までの間に3度京都から追放する院宣を受けた。

1321年(元亨元年)に追放を許されて、後醍醐天皇より寺領を受け、ここに妙顕寺を建立。さらに、1334(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受ける。

勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことだが、実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺のほうが数多い。勅願寺は全国で34ヶ寺あるが、天下の三戒壇の他は、天台宗、真言宗、臨済宗が大半で、日蓮宗で勅願寺になっているのは唯一、妙顕寺だけである。

又、朝廷(後光厳院)1358(延文3)年、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号を下賜し、妙顕寺に四海唱導の称号を、玅実には大覚の称号と大僧正を授与している。

よって勅願寺になっている寺院・宗派を、広義の意味で朝廷公認の宗派という言い方もできよう。

仮に勅願寺になっている寺院・宗派を、広義の意味で朝廷公認の宗派と考えたとしても、京都妙顕寺は、日蓮宗・日朗門流であり、大石寺とは別門流である。

したがって京都妙顕寺が勅願寺になり四海唱導の称号が下賜され、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が下賜されているからといって、大石寺が朝廷公認であるとは言えない。

大石寺門流は、日蓮の大菩薩号を否定して、日蓮宗のように「日蓮大菩薩」と呼称することを拒否していることからしても、大石寺が朝廷公認であるとは言えないのは当然と言えよう。

よって、朝廷公認の宗派ではない大石寺門流の法主、大石寺9世日有は、申状を天皇に奏請するためには、こういった朝廷公認の南都六宗・八宗に、まず申状を取り次いでもらわなくてはならない。さらにそこから朝廷の官職である伝奏に申状を、天皇に取り次いでもらわなくてはならない。いわば、二重、三重の伝奏をしてもらわなくてはならないことになる。

 

 

□天皇勅許の「大乗戒壇」で天皇・朝廷や室町幕府将軍と直結していた比叡山延暦寺

 

大石寺9世日有は、京都天奏・上洛の折りに申状を朝廷・幕府に伝奏してもらうために比叡山延暦寺を訪ねたと思われるが、ここは天皇から勅許された「大乗戒壇」であった。延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可され、弘仁13(822)、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく「大乗戒壇」が許可された後、比叡山延暦寺は日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。

円仁(慈覚大師794 - 864)、円珍(智証大師、814 - 891

良源(慈恵大師、元三大師 912 - 985年)比叡山中興の祖。

源信(恵心僧都、942 - 1016年)『往生要集』の著者。

良忍(聖応大師、1072 - 1132年)融通念仏の唱導者。

法然(1133 - 1212年)日本の浄土宗の開祖。

栄西(1141 - 1215年)日本の臨済宗の開祖。

慈円(1155 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。

道元(1200 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖。

親鸞(1173 - 1262年)浄土真宗の開祖

又日蓮宗の開祖である日蓮(1222 - 1282年)も、比叡山延暦寺で修行した僧侶であった。

これら名僧の木像が今でも比叡山延暦寺大講堂に祀られている。

その延暦寺は、年々、冨と武力を増大化していっていた。まず領地として極めて多くの荘園を保持。延暦寺の門前町である近江の国坂本周辺の土倉と呼ばれたこの時代の質屋・金融業者は延暦寺の傘下にある者が多かった。又、街道に公然と関所を設けて通行料をとっていた。比叡山延暦寺の財力というものは、相当なものであった。そして比叡山延暦寺は、強大な武力、いわゆる僧兵を持っていた。僧兵というのは武士の格好をした僧侶というよりは、僧侶の格好をした武士というべきものだ。学問や祈祷に専念する僧侶は、上級僧侶たちのことであり、下級僧侶は兵隊として働くものや金貸しをする者もいて、いわば比叡山延暦寺は巨大な利権集団というより、「比叡山延暦寺」という名前の「大名」だったと言える。強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言って嘆いたのは、あまりにも有名である。しかも比叡山延暦寺の権力・権威は年々高められていった。比叡山延暦寺は京都の鬼門に位置して、京都そして天皇家を災厄や怨霊の跳梁から守るべき鎮護国家の道場であった。

根本中堂4
 

(比叡山延暦寺・根本中堂)

根本中堂・本師薬師如来1
 

(比叡山延暦寺発行「比叡山根本中堂」に載っている根本中堂の本尊・薬師如来像)

延暦寺1戒壇1
 

(比叡山延暦寺・戒壇)

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)