■検証76・「日蓮本仏義」偽作の動機4・大石寺を「事の戒壇」にするため3

 

□自らの申状の伝奏を私度僧同然に扱われて門前払いされた大石寺9世日有の屈辱2

 

そもそも天台座主とは、日本の天台宗(延暦寺派)の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗(延暦寺派)の諸末寺を総監する役職であるが、2世圓澄までは天台宗・比叡山延暦寺内の私称であったが、3世の圓仁からは朝廷・太政官が官符をもって任命する中央政府の公的な役職となり、これが明治4年(1871年)まで続いた。 当然のことながら、日有の時代の比叡山延暦寺・天台座主も、朝廷・太政官が官符をもって任命する公的官職であり、又、天台座主は天皇・朝廷や室町幕府の将軍・中枢と直結していた。室町時代の比叡山延暦寺は、天皇勅許の大乗戒壇であると同時に、室町幕府も脅威を感じるほどの武力を持つ大名であった。その天奏の取り次ぎ依頼のための交渉も、天皇や将軍家に発言権を持っている比叡山延暦寺、園城寺(三井寺)、建仁寺といった大寺院と行うことになる。特に天台座主は、日本の天台宗(延暦寺派)の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗(延暦寺派)の諸末寺を総監する役職であるにとどまらず、3世の圓仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871年)まで続いた。中世になると、摂家門跡、宮門跡の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮院・三千院(天台三門跡)から法親王が、天台座主として就任することが多くなり、また、室町時代には足利将軍家からも天台座主が出ている。天台座主となった後に還俗し、将軍となった例としては、116世天台座主・尊雲法親王(還俗して護良親王)がいたが、何といっても日蓮正宗大石寺9世法主・日有が京都天奏のために上洛した年、1432(永享4)3月当時の室町幕府の征夷大将軍は、6代足利義教。この人は、153世天台座主・義圓だった人だ。そこで天奏となれば、比叡山延暦寺に伝奏してもらうのが、最も近道だった。

足利義教2
 

(室町幕府の6代征夷大将軍・足利義教の肖像画)

大石寺9世日有は、天皇への申状を伝奏してもらうべく比叡山延暦寺を訪ねることになる。しかし大石寺9世日有は、延暦寺で修行した正規の僧侶である日蓮の遺弟を名乗ったものの、比叡山延暦寺の僧侶からすれば、比叡山延暦寺をはじめ官寺の南都六宗・八宗での修行経験の全くない日有は所詮、駿河国の私度僧にすぎなかった。普通に考えて、こういった比叡山延暦寺、園城寺(三井寺)は、大石寺9世日有の天奏取り次ぎ依頼を引き受けるはずがない。

それは何といっても、大石寺9世日有は「念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊」を唱えた日蓮の一門の僧であり、しかも大石寺法主とは言えども、京都の大寺院から見れば、所詮は駿河国の極貧の寺の住職にすぎず、しかも大石寺9世日有と京都の大寺院は、元々の人脈やコネクションがあったわけではないから、取り次がなくてはならない特段の義理もない。

しかもこれらの大寺院が、大石寺9世日有のような僧の天奏を取り次いだとなれば、京都仏教寺院の朝廷・幕府に対する聞こえに悪影響が出ることを恐れ、確実に大石寺9世日有の申状取り次ぎの依頼は門前払いに付されるところである。

 

 

□大石寺を「事の戒壇」にするため「戒壇大本尊」「日蓮本仏義」を偽作した大石寺9世日有

 

まがりなりにも末寺を有する本山大石寺法主であった大石寺9世日有にとっては、比叡山延暦寺の前では僧侶としてすら認めてもらえないなどとは、耐えがたい屈辱だったことだろう。1334(建武元年)4月に、朝廷が妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を出しており、又、後光厳院は1358(延文3)年、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号を下賜し、妙顕寺に四海唱導の称号を、玅実には大覚の称号と大僧正を授与していることからして、大石寺9世日有が、たとえ日朗門流・日像門流ではないとしても、日蓮一門と名乗れば、申状が門前払いにされるはずがないという指摘がある。しかしこの指摘は全くの的外れであり、全く当たらない。それはなぜか。

たしかに京都妙顕寺は朝廷から勅願寺として法華宗号の綸旨を受けており、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号を、妙顕寺に四海唱導の称号を、玅実には大覚の称号と大僧正を授与されているが、当の比叡山延暦寺は、京都妙顕寺が勅願寺になることに猛反対だった。しかも比叡山延暦寺の猛反対ぶりは尋常ではなく、勅願寺になった京都妙顕寺を何度も焼き討ちにしている。1536(天文5)7月に起こった天文法華の乱における、比叡山延暦寺宗徒による日蓮宗寺院焼き討ちの大きな原因の一つが、比叡山延暦寺の京都妙顕寺が勅願寺になることへの猛反対が挙げられる。したがって比叡山延暦寺は、京都妙顕寺が勅願寺になることを認めておらず、仮に大石寺9世日有が、たとえ日朗門流・日像門流ではないとしても、日蓮一門と名乗ったとしても、確実に大石寺9世日有の申状取り次ぎの依頼は門前払いに付されてしまうことは確実なのである。

比叡山延暦寺で、私度僧同然に扱われて、申状取り次ぎを門前払いにされてしまうという屈辱を味わった大石寺9世日有は、園城寺、東大寺、唐招提寺、興福寺、法隆寺、薬師寺、高野山金剛峯寺、教王護国寺、鹿苑寺、大徳寺等々の飛鳥、奈良、京都の大寺院を訪れて、申状取り次ぎ・伝奏を依頼するも結果は同じ。ことごとく門前払いである。しかし一宗本山の法主が、弟子の僧侶や護衛の信者を引き連れて莫大な費用と日数、労力を費やして京都まで来て、天奏失敗では大石寺に帰ることが出来ない。そんなことをしたら大石寺で待っている僧侶・信者や武家・地頭は納得せず、今度は大石寺9世日有が大石寺から擯出されかねない危機が訪れることになる。

それほど絶望的に近いほど不可能に思えた日蓮正宗大石寺9世法主日有の天奏の取り次ぎが最後に実現したのは、ズバリ、大石寺9世日有が握っていた甲州・湯之奥金山から産出されていた「金」の力によるものと考える以外、有りえない。目の前に砂金やら金塊を差し出されれば、さすがの天台座主をはじめとする京都仏教寺院住職らも、朝廷や室町幕府に大石寺9世日有の天奏を取り次いだだろう。それくらい、室町時代の当時、金の力はすさまじいものがあった。つまり大石寺9世日有は「天奏」を湯之奥金山の金の力で「買った」ということである。しかしいくら金の力で大石寺9世日有が天奏を「買った」と言っても、申状が奏請されたのは、せいぜい室町幕府の将軍・足利義教止まりで、天皇の元には届いていないものと考えられる。最後の最後は、「天奏」を湯之奥金山の金の力で「買った」大石寺9世日有であったが、比叡山延暦寺をはじめ奈良・京都の仏教大寺院で味わった屈辱を晴らすためには、せめて大石寺門流の本山・大石寺を「戒壇」に定義づける必要がある。しかし戒壇の建立について「三大秘法抄」では「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書全集p1595)

と書いてあり、この定義によれば、日蓮が遺命した「事の戒壇」は、日蓮の仏法が広宣流布する日まで待たなくてはならないことになる。これでは、大石寺9世日有は、広宣流布の日ので、奈良・京都で味わった、「門前払い」という耐え難い屈辱を晴らす日は来ないと言うことになってしまう。これでは大石寺9世日有自身が納得がいかなかったことだろう。

根本中堂4
 

(比叡山延暦寺・根本中堂)

根本中堂・本師薬師如来1
 

(比叡山延暦寺発行「比叡山根本中堂」に載っている根本中堂の本尊・薬師如来像)

延暦寺1戒壇1
 

(比叡山延暦寺・戒壇)

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)