■検証78・「日蓮本仏義」偽作の動機4・大石寺を「事の戒壇」にするため5

 

□大石寺9世日有の野望を始動させた1435(永享7)年の比叡山延暦寺根本中堂炎上事件

 

それにしても、大石寺を、天皇が勅許した「大乗戒壇」である比叡山延暦寺をも凌ぐ「事の戒壇」にするという日蓮正宗大石寺9世法主日有の構想は、いくらなんでも大胆すぎる発想である。延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可され、弘仁13(822)、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく「大乗戒壇」が許可された後、比叡山延暦寺は日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。日蓮宗の開祖である日蓮も、比叡山延暦寺で修行した僧侶であった。その延暦寺は、年々、冨と武力を増大化していっていた。まず領地として極めて多くの荘園を保持。又、街道に公然と関所を設けて通行料をとっていた。比叡山延暦寺の財力というものは、時の権力者・室町幕府の将軍も無視できないような、相当、巨大なものであった。そして比叡山延暦寺は、強大な武力、いわゆる僧兵を持っていた。この僧兵、いわゆる比叡山延暦寺の軍事力も巨大なもので、いわば比叡山延暦寺は巨大な利権集団というより、「比叡山延暦寺」という名前の「大名」だったと言える。強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言って嘆いたのは、あまりにも有名である。大石寺9世日有の時代、その強大な権威・権力・財力・武力を持った比叡山延暦寺と、駿河国の草深い貧乏寺の大石寺を比べれば、「月とスッポン」「巨人とアリ」以上の差があることは明白。いくらなんでも、大石寺が天下の比叡山延暦寺を凌ぐ「事の戒壇」などとは、大石寺一門を率いる法主・9世日有がいかに声高に叫んだところで、誰も信用してはくれない。しかし、時の運は、大石寺9世日有に味方をしたとしか思えないような事件が起こるのである。それは1432(永享4)年の大石寺9世日有の京都天奏の旅からわずか3年後の1435(永享7)2月、室町幕府6代将軍・足利義教が率いる室町幕府軍と比叡山延暦寺衆の間で戦争が起こり、僧侶たちが根本中堂に火を放って集団自決。

ここに伝教大師最澄以来、およそ六百年になんなんとする伝統がある比叡山延暦寺根本中堂が焼き払われて灰塵になってしまうという大事件が起こったのである。ここの歴史的経緯については、井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述を元に進めてみたい。

室町時代の比叡山延暦寺は、巨大な権威にともなう財力と武力を持ち、室町幕府の統制に服さない「大名」というか「独立国」に近い集団であった。室町幕府の6代将軍・足利義教は、これを室町幕府の支配下に収めないかぎり、天下を掌握したとは言えず、忸怩たるものがあった。その足利義教は、かつては第153世天台座主・義円であり、還俗して室町幕府6代将軍になった人物であり、同時に比叡山延暦寺のすべてを知り尽くしていた人物でもあった。1433(永享5)年、1435(永享7)年、二度にわたって室町幕府軍と比叡山延暦寺衆の間で激しい戦争が勃発。幕府軍は圧倒的な軍事力を背景に延暦寺の領地各地に火を放ち、荘園は次々と制圧。各地で幕府軍は延暦寺「軍」を打ち破っていったのだが、延暦寺の僧兵たちは、ここで最後の切り札を出した。延暦寺の総本堂である根本中堂に立て籠もったのである。

根本中堂4
 

(比叡山延暦寺・根本中堂)

 

 

□大石寺を「事の戒壇」にするため「戒壇大本尊」「日蓮本仏義」を偽作した大石寺9世日有3

 

それ以前の例では、どんなに強大な権力者・武家でも、攻めるのはここまで。僧兵たちは、「将軍がいくら強気でも、根本中堂まで攻め込んではこないだろう」と踏んでいた。大名たちはこれ以上の軍事攻撃に反対し、延暦寺も和議を申請した。しかし足利義教は、軍事攻撃で達成できなければ、謀略で比叡山制圧を達成しようとした。足利義教は1435(永享7)年、義教は罪を反省して降伏した者には所領を安堵するというお触れを出した。これを信じて何人かの僧侶が出頭したところ、義教は直ちに逮捕して悲田院で斬首した。いかに天下の将軍とはいえ、僧侶をだまし討ちにかけて仏の慈悲を象徴する建物で斬首したのであるから、比叡山延暦寺衆の憤りは頂点に達した。

足利義教も最後まで引かず、ついに憤激した僧侶たちは自ら根本中堂に火を放って集団焼身自殺をとげたのである。このときに、伝教大師最澄以来、およそ六百年になんなんとする伝統がある比叡山延暦寺根本中堂が焼き払われて灰塵になってしまったのである。普通、伝教大師最澄以来の延暦寺根本中堂を焼き討ちにしたのは、1571(元亀2)9月の織田信長による「比叡山延暦寺焼き討ち」だということになっている。しかし足利義教の事件のほうが織田信長の焼き討ちよりも136年も先で、最初に比叡山延暦寺を「焼き討ち」にしたのは、1435(永享7)年に比叡山延暦寺焼き討ちを行った室町幕府6代将軍・足利義教なのである。不思議なことに足利義教の比叡山延暦寺焼き討ちを知る人は少ないが、これは記録に残っている明白な事実である。比叡山延暦寺根本中堂の炎上は、世間にものすごい衝撃を与えた。足利義教は京都市中で比叡山延暦寺に関する噂話を語ることを禁止し、禁令に触れた行商人たちを逮捕して斬首した。がしかし、後花園天皇の父である伏見宮貞成王は日記に「万人恐怖」と記し、人々は足利義教を「天魔の所業」と非難した。この比叡山延暦寺根本中堂炎上知らせは、当然、大石寺にももたらされたが、大石寺9世日有としては、逆にホッとしたのではないか。この事件を、「大石寺流に」解釈すると、次のようになる。

「大石寺の法主をバカにして恥辱を与えた比叡山延暦寺が天罰で炎上した。これで比叡山の『理の戒壇』は終わった。次はいよいよ本門『事の戒壇』の時代なのだ」

大石寺門流は今でもそうだが、政治事件、軍事事件、天変地夭等を無理矢理、仏罰や天罰にこじつける「こじつけ教学」や仏罰論、無間地獄論を得意中の得意としている。そうなると大石寺9世日有にとって、京都天奏の申状伝奏を門前払いにした憎むべき比叡山延暦寺が1435(永享7)年に炎上して灰燼に帰した事件を、大石寺流の「こじつけ教学」や仏罰論で解釈すると、上記のような解釈に落ち着くのは当然の帰結ではないか。大石寺9世日有の京都天奏からわずか3年後の延暦寺根本中堂炎上事件は、大石寺9世日有にとって、大石寺にとっては、偶然に延暦寺を「乗り越えた」事件ということになった。まさに大石寺の「事の戒壇」が、比叡山延暦寺の「理の戒壇」を乗り越えようとする大石寺9世日有の野望が始動することになったわけである。

根本中堂・本師薬師如来1
 

(比叡山延暦寺発行「比叡山根本中堂」に載っている根本中堂の本尊・薬師如来像)

延暦寺1戒壇1
 

(比叡山延暦寺・戒壇)

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)