■検証80・「日蓮本仏義」偽作の動機4・大石寺を「事の戒壇」にするため7
□京都妙顕寺が勅願寺になったことで日蓮宗や大石寺が朝廷公認になったのではない
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(日蓮正宗信者の妄説)
日蓮宗が朝廷から公認されていないので、日有上人が私度僧扱いされ、日有上人の申状が門前払いになったというのは、おかしい。日蓮宗関連では、日像の妙顕寺が1321年(元亨元年)に後醍醐天皇より寺領を受け、1334年(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けている。勅願寺ということは、東大寺や醍醐寺、観世音寺、薬師寺、石山寺等々と同格になったということだ。1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。よって日蓮宗も朝廷から公認された宗派だったのだ。
だから日有上人の申状が門前払いにされるはずがない。
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たしかに、妙顕寺が1321年(元亨元年)に後醍醐天皇より寺領を受け、1334年(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けたこと。1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された、ということは史実である。しかしこのことが、日蓮宗全体が朝廷公認になったというわけではないし、もちろん大石寺が朝廷公認になったということではない。当時、京都で布教をしていた日蓮宗一門は、日像門流だけであり、当然のことながら京都の朝廷は、日蓮宗と言えば日像門流しか知らなかった。百歩譲って日像の師・日朗も菩薩号を受けていることからして、日朗門流が朝廷公認になったと解釈しても、日朗門流・日像門流が公認になっただけで、それは日蓮宗全体ではない。ましてやその中に大石寺9世日有が率いる大石寺門流は入るはずがない。1334年(建武元年)4月に、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けた、というのは、あくまでも、京都妙顕寺だけの話しであって、朝廷から公認されたのは、あくまでも京都妙顕寺を本山とする日像門流だけである、という解釈が妥当なところであろう。
1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号が下賜されたというのも、あくまでもこれは京都妙顕寺に下賜されたのであり、これを後年に日蓮宗全体で用いているだけのことである。
よってこれも日蓮宗全体が朝廷公認になったというわけではない。
ましてや大石寺門流は、今でも朝廷が下賜した「日蓮大菩薩」号を否定して「日蓮大聖人」と呼称している。それでどうして1358(延文3)年の後光厳天皇による日蓮大菩薩号下賜が大石寺公認になったと言えようか。言えるわけがないではないか。
(日蓮宗大本山・京都・妙顕寺)
□朝廷勅許の戒壇・勅願寺の増加や朝廷公認宗派が増えることに猛反対してきた比叡山延暦寺
したがって1334年(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受けたこと。1358(延文3)年、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜されたことは、大石寺門流が朝廷から公認された、という解釈は絶対に成り立たない。こんなことは自明の理ではないか。それともう一つ、1334年(建武元年)4月に、朝廷が京都妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を出したことについて、当然のことながら既存の南都六宗・八宗は反対していたのであり、その中でも強硬に反対していたのが比叡山延暦寺。京都においては、日像の開教以来、比叡山宗徒と日蓮宗宗徒が事ある毎に対立し、比叡山宗徒が日蓮宗の寺院の焼き討ちを行っており、妙顕寺も比叡山宗徒から何度も焼き討ちにされている。なぜ比叡山延暦寺宗徒が京都妙顕寺を焼き討ちにしたのかと言えば、それは京都妙顕寺が朝廷の勅願寺になることに反対だったからだ。これが1536(天文5)年に、比叡山宗徒が京都の日蓮宗寺院をことごとく焼き討ちにして、京都の街が灰燼になるという、天文法華の乱が起こるまでになる。
比叡山延暦寺からすれば、比叡山延暦寺こそが勅許によって建てられた、朝廷公認の大乗戒壇であり、これ以外にない。よって比叡山延暦寺は朝廷によって戒壇が増えたり、勅願寺が増えたりして、実質的な公認宗派が増えることに猛反対してきた。平安時代、延暦寺、園城寺の諍論により、園城寺の宗徒は比叡山延暦寺の戒壇で受戒できなくなり、そこで永保元年(1081)に白河院の綸旨により園城寺に延暦寺の分壇として、三麻耶戒壇が建壇された。しかし延暦寺はこれに猛反対し、1081(永保1)年には山門(延暦寺)宗徒が園城寺に乱入し、伽藍・堂宇のほとんどを焼き払ってしまう。以後、比叡山延暦寺宗徒の園城寺焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。いわば比叡山延暦寺は、既得の特権を死守しようとしたわけで、京都妙顕寺が勅願寺になることにも猛反対したのである。したがってこれらの史実からして、大石寺9世日有が、朝廷への伝奏を司る比叡山延暦寺に申状の取り次ぎ依頼に行っても、比叡山がこれを取り次ぐはずがなく、比叡山延暦寺や官寺で修行経験のない大石寺9世日有を私度僧扱いして、門前払いにしてしまうのは、当然の道理である。
(比叡山延暦寺・根本中堂)
(比叡山延暦寺発行「比叡山根本中堂」に載っている根本中堂の本尊・薬師如来像)
(比叡山延暦寺・戒壇)
(比叡山延暦寺発行「比叡山根本中堂」に載っている「不滅の法灯」)
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