■検証21・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない14

 

□日蓮は弟子たちに「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」とは遺言していない

 

1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」の内容は、実に注目に値するものである。

「興津法西より日伝への返付状」

「駿河国富士上方上野郷大石寺御堂坊地

先例に任せ地頭時綱寄進状、並に師匠日郷置文以下証文などにより、宮内郷阿闍梨日行の競望を止め、元の如く中納言阿闍梨日賢に返付申し候了んぬ。

仍て先例を守り勤行せらるべきの状件の如し。

貞治五年九月十七日   沙弥法西 判

大石寺別当中納言阿闍梨の所」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』9p39)


興津法西状1


興津法西状2


 

中納言阿闍梨日賢というのは、日郷一門の貫首・日伝の改名前の名前。この文書の中で、上野郷の地頭・興津法西が日伝を「大石寺別当」と呼んでいることは、まことに注目すべきことである。

日蓮正宗が発行している「日蓮正宗・富士年表」によれば、当時の大石寺法主(別当)は、日伝ではなく、5世法主の宮内卿阿闍梨日行になっている。日行から日伝に大石寺法主が代替したとは書いていない。日伝は、大石寺歴代法主の中に名前はない。日伝とは、当時、大石寺と対立・紛争をしていた日郷一門の小泉久遠寺・保田妙本寺5代貫首で、歴代大石寺法主に名前はない。

しかし、この当時の文献では、大石寺のある上野郷の地頭・興津法西は、大石寺の日行ではなく、日郷一門の日伝を「大石寺別当」と呼んでいるのである。ということは、この当時、日蓮正宗が「法主」と認めていない人物が、「大石寺別当」(法主)職にあったということになる。

つまりこれは、平たく言えば、当時の大石寺は、日郷一門の貫首・日伝らによって占拠されていたということに他ならない。こういうと法華講員は「そんな大石寺が日郷一門の貫首・日伝らによって占拠されていたはずがない」などと言うであろう。しかし1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状—「興津法西より日伝への返付状」は、動かしがたい事実である。日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した『富士宗学要集』9巻にも収録されている。


蓮蔵坊1
 

(現在の大石寺蓮蔵坊・「大石寺案内」より)


保田妙本寺1
 

(保田妙本寺)

 

 

 

□地頭が波木井実長以上の不法・謗法を行ったのに大石寺離山をしなかった大石寺5世日行

 

この中で大石寺がある上野郷の地頭・興津法西は、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んでいる。これは大石寺一門、大石寺5世日行からすれば、とんでもない不法行為である。

この不法は、波木井実長以上の不法であるはずである。波木井実長は日向の指導に信伏随従していたが、まだ日興を直接の師匠だと認めていた。

ところが上野郷の地頭・興津法西は、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んでいる。これは、大石寺5世日行からすれば、波木井実長以上の不法であるはずである。

ならば日蓮が「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)などという遺言をしていたというならば、直ちに大石寺を離山しなければならないはずである。

ところが1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」によって大石寺5世日行が大石寺を離山したという史実は全くない。

否、それどころか大石寺5世日行は、大石寺を離山するどころか、逆にありとあらゆる手段を使って大石寺・蓮蔵坊を奪い返そうとしている。そして大石寺5世日行の次の法主である大石寺6世日時の代になって、日郷一門は大石寺蓮蔵坊をあきらめて退去している。

1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」に地頭・興津法西が、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んで、波木井実長以上の不法を行っているにもかかわらず、大石寺5世日行が大石寺を離山しなかったという史実は、まことに重要である。もし本当に日蓮が「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)などという遺言をしていたのに、大石寺5世日行が大石寺を離山しなかったということは、大石寺5世日行が日蓮の遺命に随わなかったということになる。それでは大石寺5世日行が日蓮の遺命に随わないという矛盾が出てしまうことになる。

これはむしろ逆である。日蓮が「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)などという遺言をしていなかったからこそ、地頭・興津法西が、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んで、波木井実長以上の不法を行っているにもかかわらず、大石寺5世日行が大石寺を離山しなかったのである。これで歴史的会通が全て成立する。つまり、日蓮は最初から「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)などという遺言をしていないのである。だから日興の身延離山以降も、日蓮の遺骨は身延山久遠寺にあるのである。


百六箇抄1


 

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻に載っている「百六箇抄」)


要山13日震書写の二箇相承(諸記録)


 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている京都要法寺13祖日辰書写「二箇相承」)


大石寺14日主書写二箇相承(諸記録)


 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている大石寺14世日主書写「二箇相承」)