■検証23・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない16

 

□日興は身延離山のときに何も持ち出していないと認めている大石寺59世法主堀日亨

 

したがって、日蓮正宗や創価学会で言っている「日興上人は本門弘通の大導師であり、身延山久遠寺の別当であったから、身延離山のときに『戒壇の大本尊』『日蓮真骨』『御肉牙』『最初仏』などのすべての重宝を身延山久遠寺から持ち出した」「身延山久遠寺の別当だったからこそ『本門戒壇の大御本尊』や『日蓮真骨』をひとつも残らず、持ち出すことができた」などという話しは、全くのウソである。日蓮正宗や創価学会が、日興が身延離山のときに身延山久遠寺から持ち出したなどと称している、大石寺にある「戒壇の大本尊」なる板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、「二箇相承」も「唯授一人血脈相承」も、全てがニセモノということである。日蓮正宗大石寺59世法主であった堀日亨自身が、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と断言している。堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」にて、次のようなことを書いている。

「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p212より)

 

原殿抄の末文にある如く延山の常住物は何一つ持ち出していない


 

つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っている。普通に考えれば、日蓮正宗大石寺59世法主である堀日亨としては、日蓮正宗大石寺の“先師”にあたる大石寺17世日精の著書「家中抄」の文に、「板御本尊・生御影・其の外御書物御骨等まで取り具して離山し給ふ」と書いてあるわけだから、それをそのまま肯定するところである。

ところが堀日亨はそうは言わずに、「戒壇の大本尊」なる板本尊があったかどうかについては「研究の余地が存ずる」と言っているわけだから、これは実質的に否定しているのも同然である。

つまり、これはこういうことだ。「研究の余地が存ずる」などという言い方になっているのは、日蓮正宗大石寺59世法主を経験している堀日亨は、身延離山の日興の荷物の中に「戒壇の大本尊」なる板本尊が含まれて「いなかった」と考えていても、それをそのまま「いなかった」と書けないのである。そんなことを書くと、日蓮正宗大石寺法主経験者が自ら、日蓮正宗の公式見解を否定することになってしまう。したがって、「なかった」とは書けないので「研究の余地が存ずる」などという言い方になる。

 

 

□堀日亨は大石寺法主でありながら本心では「戒壇大本尊」「二箇相承」偽作説を支持していた

 

この堀日亨という人は、日蓮正宗大石寺法主を経験した人物ではあったのだが、本心では「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊をはじめ、大石寺の『日蓮真骨』『御肉牙』『最初仏』などのすべての重宝は、後世の偽作説を支持していた、いわゆる「身は法主でも心は偽作説」だった人である。

したがって、堀日亨の文を読むときは、ここを留意して読まねばならない。

それから質問者は「これに遺骨や戒壇の大御本尊は含まれないことを前文でことわっている」などと書いているが、この「前文」とは一体どこを指しているのか。「家中抄」を指しているのなら、これは堀日亨の文ではなく、日蓮正宗大石寺17世法主日精が書いた文であるから、この指摘は当たらない。では、堀日亨は「御荷物の中に『生御影』『御骨』はかならず御奉持であるべきであるが」(「富士日興上人詳伝・上」p280)と書いているので、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の存在は否定しても、『生御影』や日蓮の『御骨』は肯定しているのではないかという論理が成り立つかもしれない。しかしこれも「否」である。それは『生御影』や日蓮の『御骨』についても、堀日亨は直接の言葉で肯定しておらず、「あるべきである」などという、奇妙な?助動詞を使っていることである。そこで「べし(べき)」という助動詞を辞書で調べてみると

「1 当然の意を表す。…して当然だ。…のはずだ。

2 適当・妥当の意を表す。…するのが適当だ。…するのがよい。

3 可能の意を表す。…できるはずだ。…できるだろう。

4 (終止形で)勧誘・命令の意を表す。…してはどうか。…せよ。『明日は八時までに出勤すべし』

5 義務の意を表す。…しなければならない。『この件については君が責任をとるべきだ』

6 推量・予想の意を表す。…だろう。…しそうだ。」
この中のどれに該当するのか、という話になるのだが、「過去の歴史」について堀日亨が語っているところだから、「推量・予想の意」か、ないしは「可能の意」というところか。こういったところにも、堀日亨が言外に「『戒壇の大本尊』偽作説支持」を含ませているものと解釈することができる。


59世日亨2
 

(大石寺59世堀日亨)


百六箇抄1
 

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻に載っている「百六箇抄」)


要山13日震書写の二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている京都要法寺13祖日辰書写「二箇相承」)


大石寺14日主書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている大石寺14世日主書写「二箇相承」)