■検証81・「日蓮本仏義」偽作の動機5・大石寺法主の権威確立のため1

 

□「本仏の後継者」「本仏の代官」としての日蓮正宗大石寺法主の権威の確立のため

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有(14021482・法主在職1419146714721482)が「日蓮本仏義」を偽作した5番めの動機は、宗祖である日蓮を「本仏」と位置づけることにより、同じく大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊・「唯授一人血脈相承」と合わせて、大石寺法主を「本仏・日蓮の後継者」「本仏・日蓮の代官」としての「法主の権威」を確立するためである。

大石寺9世日有は、「化儀抄」において、現住の大石寺法主は、現在の日蓮、日興、日目であるという教義を繰り返し説いている。

「手続の師匠の所は三世の諸仏、高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此の如く我に信を取るべし、此の時は、何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり」(富士学林編纂『化儀抄』p25)

--------「手続(いつぎ)の師匠」とは、自ら弟子をもって薫育している師匠のことで、大石寺法主や末寺の住職のこと。その「手続の師匠」の所には過去・現在・未来の三世の総ての仏や高祖日蓮以来、歴代の大石寺の法主の心がぬけられて師匠の所に来ているのだから、その師匠をよくよく信じて信仰に励むべきである。私(日有)の弟子たちも、このように私(日有)を信じて信仰に励むべきである。-------

 

手続師匠所三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる
 

上記の第4条の文はその代表的なものであるが、次下の第14条、第24条の文も同じである。

「信者門徒より来る一切の酒をば、当住持始めらるべし、只、月見、二度の花見当計り児の始めらるるなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられたる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給う姿なり」(富士学林編纂『化儀抄』p31)

 

信者門徒より来る一切の酒をば、当住持始めらるべし
 

「弟子檀那の供養をば、先ず其所の住持の御目にかけて、住持の義に依って仏に申し上げ鐘を参らすべきなり、先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり。」(富士学林編纂『化儀抄』p38)

 

弟子檀那の供養をば、先ず其所の住持の御目にかけて
 

これに「日蓮本仏義」を重ね合わせると、大石寺法主は本仏・日蓮の正統な後継者であり、代官であるという、「法主絶対思想」が出来上がるということになる。大石寺9世日有が現職の大石寺法主であった代に、京都・日尊門流から日有の門下に帰伏した左京阿闍梨日教は、自らの著書で

「釈尊より以来の唯我一人の御附嘱を糸乱れず修行有る聖人を信受し奉る所の信心成就せば師檀共に事の行成立すべし、さてこそ当家なれ」(「穆作抄」/『富士宗学要集』2p262)

 

釈尊より以来の唯我一人の御附嘱を糸乱れず修行有聖人信受奉所1


釈尊より以来の唯我一人の御附嘱を糸乱れず修行有聖人信受奉所2
 

「此の(大石寺)門家には日蓮聖人より以来の附法血脈一宗の法頭疑ひなきなり」(「穆作抄」/『富士宗学要集』2p274)

 

此門家には日蓮聖人以来附法血脈一宗法頭疑ひなき1


此門家には日蓮聖人以来附法血脈一宗法頭疑ひなき2
 

「此の御本尊は忝くも高祖(日蓮)聖人より以来、付法の貫主のあそばしたまふ授与の御本尊より外に仰も雅意に任せて書く可きや」(「穆作抄」/『富士宗学要集』2p283)

 

此御本尊忝高祖聖人以来付法貫主授与御本尊1


此御本尊忝高祖聖人以来付法貫主授与御本尊2
 

「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次に仏法附嘱として当代の法主の所に本尊の体有るべきなり」(「類聚翰集私」/『富士宗学要集』2p309

 

日蓮聖人御入滅有補処定む其次仏法附嘱当代法主所1


日蓮聖人御入滅有補処定其次仏法附嘱当代法主所2
 

というふうに、「法主絶対思想」を繰り返し、宣揚・鼓舞しているとおりである。

 

 

 

 

□大石寺教団統制のために大石寺法主の絶対的宗教権威を必要としていた大石寺9世日有

 

宗教は、「信」に基盤をおいた宗教的な権威、神、仏、僧侶、法主、教祖などへの盲従を前提にしている。つまり権威とは、助言以上命令以下であり、人が自発的に同意・服従を促すような能力や関係のことであり、威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。ただし、「自発的に」とはいっても、上司や階級が上の者、周囲からの「同意・服従」への圧力がかかっているということが大きく作用していることは事実で、したがって、人の完全に自由意志で結論を下したというわけではない。

他者に対して権威的である、あるいは権威が生じている集団のあり方は様々であり、例えば神秘的、非合理的な宗教団体における教祖と信者の関係でも、合理的研究を追求する研究所内における専門家と研究員の関係でも権威は生じる。権威は、ある立場・地位のみが権威化され、そのポジションにおかれた個人そのものに権威がともなわない場合もある。いわゆる権威的な職種に携わる人が、その地位を象徴する制服やバッジを身につける限りは権威を行使できても、そうした装置をひとたび外せば権威が失われてしまうということもある。

ところが日蓮正宗における「法主」の地位、ないし法主の地位にあった人物の権威は、「日蓮本仏義」がミックスされることによって、僧侶、信者を従わせる「絶対的」な権威となる。仏教において、仏と衆生、法主と僧侶と信者、能化と所化の区別は絶対のものである。仏門に入った衆生は、仏の教えに基づいて修行し、研鑽を重ねて、自らが成仏する、ということになる。したがって、仏、ないし仏の教えは、仏門に入っている僧侶や信者にとっては絶対のものである。大勢の僧侶と信者がいる仏門・教団の実質的な頂点にある法主が、「本仏の正統な後継者」ということになれば、法主の地位は、本仏の地位に等しくなるくらいに権威付けられ、絶対化することは必至である。

その「絶対的」な権威を保持する法主に逆らう僧侶や信者は、「擯斥」(ひんせき)や「信徒除名」という名目で日蓮正宗大石寺門流という「教団」の外に追放され、その後は、大石寺参拝・「戒壇の大本尊」なる板本尊内拝ができなくなるばかりではない。僧侶は今まで住んでいた日蓮正宗寺院から追い出されることになり、実質的に失業し、収入源を絶たれてしまう。

したがって、日蓮正宗の法主の権威とは、ただ単に僧侶や信者が自発的に同意・服従を促すような能力や関係にとどまらない。「擯斥」や「除名」といった宗制宗規といったものによる威嚇や集団圧力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力という側面まで併せ持つということになる。ファシズム、ナチズムやスターリニズムといったナチドイツ、ソ連、中国、北朝鮮、クメールルージュ等に代表される全体主義体制のように、近代的個人の諸権利が完全に否定されて、強力な政府のもとで自由主義、個人の諸権利を抑圧しつつ「上からの支配」が行われる政治体制を権威主義体制と称することがあるが、日蓮正宗の法主の権威によって作り出されている支配体制は、まさにこれらの権威主義的な政治体制とまことに酷似している。こういった支配体制を作り出す源泉思想が、まさに大石寺9世日有が偽作した「日蓮本仏義」ということになる。


9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)