□韓国「法華講」信徒を約10年間、大石寺登山停止にしてしまった海外部長・前川日秀(慈筆)

 

201711日、東京・練馬区の日蓮正宗寺院・華王寺の初代住職・前川日秀(慈筆)氏が、92才で死去した。大石寺68世早瀬日如法主が華王寺に下向して行われた前川日秀(慈筆)氏の通夜、葬儀の模様が、平成292月号「大日蓮」に載っている。

平成292月号「大日蓮」の報道によれば、前川日秀(慈筆)氏は大正13(1924)66日、大阪府の出身。父親は、大石寺塔中久成坊住職、日蓮正宗参議会議長などを歴任した前川日順(慈寛)氏である。1924年生まれということは、1922年生まれの大石寺67世阿部日顕法主より2才年下。1935年生まれの大石寺68世早瀬日如法主よりも11才も年上である。前川日秀(慈筆)氏は昭和15(1940)624日、16才で大石寺62世鈴木日恭法主を師僧として出家・得度。昭和22(1947)4月、23才で新説免許。教師に昇進し、「慈筆房日秀」との名をもらった。大石寺68世早瀬日如法主は、1943年の出家得度。1960年の新説免許であるから、前川日秀(慈筆)氏は、大石寺68世早瀬日如法主よりもはるかに「先輩格」の僧侶である。

前川日秀(慈筆)氏の住職歴は、昭和32(1957)9月に山口県下関市の妙宝寺住職、昭和38(1963)4月、静岡県富士宮市の下之坊住職、昭和39(1964)3月、大石寺塔中百貫坊住職。そして昭和44(1969)2月、東京・練馬区の華王寺初代住職に任命された。ちなみに、東京・練馬区の華王寺とは、創価学会の寄進・供養により建立された日蓮正宗寺院。当時の本堂に祀られていた板本尊には、「願主 法華講総講頭 池田大作」の名前が入っていた。ところが1983(昭和58)2月、前川日秀(慈筆)氏は木造建築の寺院庫裡・本堂を、鉄筋コンクリート造りの寺院庫裡・本堂に新築。これにともない新たに本堂に祀る板本尊を法主に申請。当時の法主・大石寺67世阿部日顕が華王寺に下向して新築落慶法要が行われ、新しい本堂には、願主に前川日秀(慈筆)氏の法名が入った新しい板本尊が祀られ、「願主 法華講総講頭 池田大作」の名前が入っていた板本尊は、新しい客殿に移動した。

さてこの前川日秀(慈筆)氏は、教師昇進後、宗会議員、富士学林教授、全国布教師、上野幼稚園園長、日蓮七百遠忌局委員、遠忌局常任委員会委員、日興・日目六百五十回遠忌奉修委員会委員、財団法人妙観会理事、大石寺開創七百年慶祝奉修委員会委員、参議、監正員、監正会会長、日蓮・立正安国論七百五十年記念局委員、日蓮生誕八百年慶祝記念局委員といった、そうそうたる日蓮正宗の要職を歴任してきているのだが、その要職の中で、菅野日龍(慈雲)氏につづく日蓮正宗宗務院の三代目・海外部長だったことは、以外と知られていない。(日蓮正宗宗務院海外部長は、初代・菅野日龍(慈雲)氏、二代・早瀬義孔氏、三代・前川日秀(慈筆)氏、四代・尾林広徳(日至)氏、五代・漆畑行雄氏)。日蓮正宗の海外布教関連では、1980(昭和55)11月に大韓日蓮正宗法華講仏教徒会の指導教師、1983(昭和58)7月から6年、アメリカ合衆国の日蓮正宗宗教法人であるNST(日蓮正宗寺院)の理事を務めている。前川日秀(慈筆)氏が、日蓮正宗宗務院海外部長だった時期は、1981(昭和56)1月から1988(昭和63)8月までの約77ヶ月の間。その直前に大韓日蓮正宗法華講仏教徒会の指導教師という役職の辞令を受けている。

 

 

□宗務院海外部長退任から25年後の90才になってようやく能化に昇進した前川日秀(慈筆)

 

「大韓日蓮正宗法華講仏教徒会」というのは「法華講」という名前が入っているが、そもそもこれは、いわゆる「昭和五十二年路線」と言われる創価学会と日蓮正宗の抗争、いわゆる第1次宗創紛争で、韓国の創価学会組織である「韓国日蓮正宗仏教会」(今の韓国SGI)を脱会した日蓮正宗信徒の団体。日蓮正宗・創価学会は、宗創和合時代で「折伏大進撃」の全盛時代だった1960年代のころから、韓国に布教を行っていたが、韓国の信徒は派閥抗争がひどく、十派以上の派閥に分裂していた。それが日蓮正宗と創価学会のてこ入れが入り、1976(昭和51)1210日、分裂状態の派閥は、韓国の創価学会組織である「韓国日蓮正宗仏教会」に統一され、日蓮正宗宗務院は、議長3名、運営委員9名を認証した。(日蓮正宗「富士年表」p481より)

ところが1977(昭和52)年に入って、「昭和五十二年路線」と言われる創価学会と日蓮正宗の第1次宗創紛争が勃発。これが韓国にも飛び火して、「韓国日蓮正宗仏教会」から信徒が脱会。これは当時の「正信覚醒運動」の活動家僧侶、後の正信会僧侶の主導で行われ、韓国の創価学会組織である「韓国日蓮正宗仏教会」から脱会した信徒が結成した「大韓日蓮正宗法華講仏教徒会」は、「法華講」という名前を冠してはいたものの、実質的に正信会の支配下にあった。

したがって1980(昭和55)11月に前川日秀(慈筆)氏が大韓日蓮正宗法華講仏教徒会の指導教師に任命されたのは、実質的に正信会の支配下にあった大韓日蓮正宗法華講仏教徒会を日蓮正宗宗務院の支配下に置こうとした大石寺67世阿部日顕法主の意向があったものと思われる。

1980年代前半、正信会僧侶が、大石寺67世阿部日顕法主の血脈を否定して日蓮正宗から破門になり、日蓮正宗は、日本では創価学会と法華講を信徒団体として公認したが、海外においては創価学会(SGI)だけを信徒団体として公認する方針をとった。そのため、韓国では「法華講」の名前を冠する信徒団体があったにもかかわらず、日蓮正宗からは非公認とされてしまい、韓国の創価学会から脱会した信徒は、大石寺参拝ができなかったという、悲劇的な歴史がある。1980年代のころ、韓国の創価学会から脱会した信徒は、何度も日蓮正宗宗務院に大石寺参拝・戒壇の大本尊「御開扉」願いを出しているが、全て却下されている。こういう日蓮正宗宗務院の海外布教(?)の陣頭指揮を執ったのが、当時、海外部長だった前川日秀(慈筆)氏である。前川日秀(慈筆)氏は、華王寺でも、「昭和五十二年路線」の創価学会と日蓮正宗の第1次宗創紛争のとき、創価学会の脱会信徒を受け容れておらず、前川日秀(慈筆)氏が創価学会から脱会した信徒を受け容れて、法華講華王寺支部を結成せしめたのは、199012月の池田大作総講頭罷免に端を発した日蓮正宗と創価学会の「宗創戦争」勃発以降のことである。又、韓国の「法華講」信徒が、大石寺参拝・戒壇の大本尊内拝が認められたのは、同じく、日蓮正宗と創価学会の「宗創戦争」勃発以降のことである。

さて日蓮正宗では、宗務総監、庶務部長、教学部長、渉外部長、海外部長を勤めた僧侶は、能化に昇進することが慣例になっている。庶務部長を1年、海外部長を2年足らずで途中退任した菅野日龍(慈雲)氏も、1980年の海外部長退任から22年後の2002年に能化に昇進している。ところが海外部長を77ヶ月も勤めた前川日秀(慈筆)氏が能化に昇進したのは20133月。海外部長退任から数えて25年後。前川日秀(慈筆)氏は90才になっていた。

大石寺67世阿部日顕法主の方針・政策に忠実に随従した前川日秀(慈筆)氏だったが、大石寺67世阿部日顕の法主在職中に能化昇進は叶わず、法主の代が替わって大石寺68世早瀬日如の代になってから、ようやく叶った能化昇進であった。「遅すぎた」(?)能化昇進を、前川日秀(慈筆)氏はどのように考えていたのだろうか。

 

前川日秀(慈筆)氏死去1


前川日秀(慈筆)氏死去2


前川日秀(慈筆)氏死去3


前川日秀(慈筆)氏死去4
 

(平成292月号「大日蓮」に載っている前川日秀(慈筆)氏死去の記事)