■検証27・大石寺「唯授一人血脈相承」が偽作である証拠・「二箇相承」の大ウソ1

 

1480(文明12)本是院日叶「百五十箇条」にはじめて全文が登場する「二箇相承」

 

大石寺の歴代法主のみが相承してきたと称する「唯授一人血脈相承」の根幹を為す文献のひとつが、「二箇相承」なる文書である。「二箇相承」とは、「日蓮一期弘法付嘱書」(身延相承書)と「身延山付嘱書」(池上相承書)の二通の文書からなるが、この「二箇相承書」(にかのそうじょうしょ)の検証は、この文献がいったいどのような経緯で、日蓮正宗大石寺に伝承されているのか、というところから検証せねばならない。「二箇相承書」という文献が、いつの時代から、どのようにして今日まで伝承されてきたのかを、簡単にまとめると、次のようになる。

1308(徳治3)928日 日頂「本尊抄得意抄副書」

「興上一期弘法の付嘱を受け日蓮日興と次第日興は無辺行の再来として末法本門の教主日蓮が本意之法門直受たり、熟脱を捨て下種を取るべき時節なり…」

「末法本門の教主日蓮」「日興は無辺行の再来」は日蓮の教説の中にはなく後世の偽書である。

1336(延元元年)915日 日順「日順阿闍梨血脈」

「日興上人は是れ日蓮聖人の付処…」

1351(正平6)3月 日順「摧邪立正抄」

「日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と…」

1380(康暦2)  日眼「五人所破抄見聞」

「日蓮聖人之御附嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」

戦国時代以降の筆法があり、富士妙蓮寺5代貫首・日眼ではなく西山本門寺8代貫首・日眼の作とされる。

1468(応仁2)1013日 要法寺12祖・日広書写本

日広本は非公開であるため、その具体的内容は不明

1480(文明12)  本是院日叶(左京阿闍梨日教)「百五十箇条」

本是院日叶(左京阿闍梨日教)が著書「百五十箇条」の中で「二箇相承」の全文を引用している。

「身延相承書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり

    弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之を写す」

「池上相承 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり

    弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判、武州池上」

 

183二箇相承初出1百六箇抄文本因妙教主某
 

(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p182183)

 

1488(長享2)610日 左京阿闍梨日教「類聚翰集私」

左京阿闍梨日教が著書「類聚翰集私」の中で「二箇相承」の全文を引用しているが、ここに載っている「二箇相承」の全文は、8年前に自分が「百五十箇条」の中で引用した「二箇相承」と内容が、あべこべになっている。

「身延相承 釈尊五十年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり

弘安五年九月十三日、日蓮在御判、血脈次第日蓮日興、甲斐国波木井山中に於いて之を図す」

「池上相承 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法とは是なり、中んづく我門弟等此状を守るべきなり、

    弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判」

 

315二箇相承・産湯相承事初出
 

(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p314315)

 

1489(延徳元年)114日 左京阿闍梨日教「六人立義破立抄私記」

左京阿闍梨日教が著書「六人立義破立抄私記」の中で「二箇相承」の全文を引用しているが、前年に「類聚翰集私」の中で全文引用した「二箇相承」の内容とは、部分的に食い違っている所がある。

「身延相承 釈尊五十余年之説教、白蓮日興に之れを付属す、身延山久遠寺の別当為る可し、背く在家出家共の輩は非法の衆為る可き者也

弘安五年九月十三日、日蓮在御判 血脈の次第日蓮日興 甲斐国波木井郷の山中に於て之れを図す」

「池上相承 日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之れを付属す、本門弘通之大導師為る可き也、国主此の法を立て被れば富士山に本門寺の戒壇を建立為す可き也、時を待つ可き於耳、事の戒法と謂ふは是れ也、中ん付く我か門弟等此の状を守る可き也

    弘安五年十月十三日 日蓮在御判」

 

45二箇相承文
 

(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』4p44)

 

 

 

 

 

1516(永正11)  越後本成寺8代貫首・日現「五人所破抄斥」

日現が著書「五人所破抄斥」の中で、「二箇相承」を引用して、「二箇相承」を偽書であると批判している。越後本成寺とは円光日陣(13391419)が開祖である法華宗陣門流の総本山。日現とはその越後本成寺8世。円光日陣は、1396(応永3)年に「選要略記」を著して、日蓮宗一門で歴史上はじめて本迹勝劣を説いた人物として有名である。その後、慶林日隆、常不軽日真も日陣門流教学の影響を受けており、円光日陣とはいわゆる「勝劣派」の祖というべき人物である。

 

その「二箇相承書」のルーツについて、日蓮正宗や創価学会は次のように説明する。

 

まず「二箇相承書」の正筆といわれるものは、日蓮正宗二祖・大石寺開祖・日興から三祖日目に相承されずに、日興が晩年、重須談所として弟子の育成のために住んだ重須本門寺(現日蓮宗大本山・北山本門寺)住職に、代々伝承されていたということ。

そして宗祖日蓮から日興への血脈相承を証明するものと日蓮正宗や創価学会が言っている「二箇相承書」の正筆といわれるものは、1581(天正9)317日に、西山本門寺の軍徒と武田勝頼の軍勢が北山本門寺に攻め入って、北山本門寺の重宝類を強奪したという事件、いわゆる「武田の兵乱」で、北山本門寺から強奪されてしまい所在不明となったまま紛失してしまったと、日蓮正宗や創価学会が公式に言っている。

日蓮正宗や創価学会の説明によれば、「この天正9年に北山本門寺と西山本門寺との紛争で、北山本門寺の霊宝百数十点が武田勝頼の家臣・増山権右衛門、穴山梅雪ほか百余名の者たちに奪い取られ、紛失してしまった。その中に二箇相承書の正筆が含まれていた」という。

北山本門寺に攻め込んできた武田勝頼公の軍勢と西山本門寺の群徒によって、北山本門寺の霊宝が強奪されたまま、「二箇相承」の正筆と称するものは、今日にいたるまで行方不明となっていると、日蓮正宗や創価学会では言っている。

 

日蓮正宗は「富士年表」などの公式文献の中で「二箇相承書」が紛失したことを認めており、創価学会も1955(昭和30)年に刊行した文献「創価学会批判の妄説を破す」の中で「二箇相承書は武田の兵乱の時、紛失した」と、はっきり明言している。

 日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』上p188 には、重須本門寺(北山本門寺)の文献として1581(天正9)317日付けの「本門寺宝物目録中」の他、西山本門寺や小泉久遠寺・保田妙本寺の文献を正史料・参考史料として掲載している。

日蓮正宗では以下の文献を正史料として挙げている。


5-60二箇相承頂拝す1
 

「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず、書写して、今本寺に在り」(『祖師伝・日陽伝』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第5p60収録)

 

 

1556年(弘治2年)7 7日 京要法寺日辰 重須に霊宝を拝し、二箇相承を日耀に写 さしむ」(日蓮正宗冨士学林発行『富士年表』p192 

 

 

1558年(永禄1年)119日 京要法寺日辰 寂円入道を使し大石寺日院に書を送り、 富士各山の通用をはかる 1115日 日院これを拒否」(『富士年表』p193 

1559年(永禄2年)120日 京要法寺日辰 二箇相承を写す」(『富士年表』p194

1581年(天正9年)317日 重須本門寺 二箇相承等の重宝を西山衆徒並びに武田勝 頼の臣・増山権右衛門等のために奪わる」(日蓮正宗冨士学林発行『富士年表』p205

 

ここまでの話しの中で、「二箇相承」に関する矛盾が噴出している。

まず、宗祖日蓮から日興への血脈相承を証明するものと日蓮正宗や創価学会が言っている「二箇相承書」の日蓮の正筆と称するものを日興は、なぜか「三祖」日目に相承せずに、日興が晩年に住んだ北山本門寺に格蔵されていたなどという、日蓮正宗の説明の矛盾。

日蓮正宗が言う法主から法主への血脈相承が本当なら、「二箇相承」の正筆は、北山本門寺ではなく、日蓮正宗大石寺に存在していなくてはならないはずだ。

そして日蓮から日興への血脈相承を証明する「大事な文献」であるはずの「二箇相承」が、1581(天正9)年の武田の兵乱で紛失してしまい、今日にいたるまで行方不明になっているなどという、これまたおかしな日蓮正宗の説明の矛盾。

本来、「二箇相承」は日蓮正宗大石寺に格蔵されているべきものなのだから、1581(天正9)年の武田の兵乱で北山本門寺から紛失してしまうはずのものではないはずだ。

こんな明らかな矛盾を、日蓮正宗の信者は何の疑問にも感じないのだろうか?こちらが不思議に思ってしまうのである。

 

二箇相承5
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』