■検証29・大石寺「唯授一人血脈相承」が偽作である証拠・「二箇相承」の大ウソ2

 

□複数の著書で全く正反対の内容の「二箇相承」を書いている本是院日叶(左京阿闍梨日教)

 

1556(弘治2)77日 京都要法寺13祖貫首・日辰の写本

要法寺13祖貫首・日辰が北山本門寺に行き霊宝を拝し、北山本門寺8世貫首・日耀をして臨写させたとされる写本が西山本門寺に現存している。

「身延相承 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日              日 蓮 在 御 判

                  血脈の次第 日蓮日興」

「池上相承 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日           武州池上

                          日 蓮 在 御 判」

 

大石寺・日蓮一期弘法附属書4
 

(大石寺蔵『日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)

 

西山本門寺・身延山相承書1
 

(大石寺蔵『身延山付嘱書(池上相承書)

この「二箇相承」は、本是院日叶(左京阿闍梨日教)が著書「百五十箇条」の中で引用した「二箇相承」と、大同小異の内容になっている。

ただし、日叶本の「身延相承」に「弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之を写す」とあるが、日辰本では「弘安五年壬午九月 日 血脈の次第 日蓮日興」となっていて、「甲斐国波木井山中に於て之を写す」の語句はない。

又、日辰本の「池上相承」は、身延山のところが「身遠山」となっているが、日叶本の「池上相承」は「身延山」となっている。「身遠山」は単なる書写の間違いではないかとされている。

1573(天正元年) 大石寺14世日主の「二箇相承」写本

日主本は、要法寺日辰本とほぼ同じで、日辰本と同じく「池上相承」の身延山のところが「身遠山」となっている。

1581(天正9)317日 「二箇相承」強奪事件

甲斐国大名・武田勝頼の家臣・増山権右衛門と西山本門寺宗徒の軍勢が北山本門寺を襲撃して、「二箇相承」等の重宝を強奪する。

1582(天正10)26日 北山本門寺10代貫首・日殿が武田方に重宝返還の訴を為すも聞き入れられず、断食・憤死する。

1582(天正10)311日 織田信長・徳川家康連合軍の武田征伐・天目山の戦いで、武田勝頼一族が滅亡する。

 

 

 

1582(天正10)1015日 西山本門寺13世貫首・日春が甲府総檀方に書を送り、二箇相承・本門寺額・八通遺状等の返還を促す。

1582(天正10)1028日 徳川家康の家臣・本多作左衞門が武田家強奪の重宝類を取り返して、西山本門寺に寄進する。

1582(天正10)122日徳川家康の家臣・本多作左衞門が徳川家康の命により、西山本門寺より重宝64点を北山本門寺に返還する。

1582(天正10) 保田妙本寺14代貫首・日我が「二箇相承紛失証明」を記す。

1611(慶長16)1215日 駿府城にて徳川家康が北山本門寺養運坊が奉持した「二箇相承」を拝する(駿府政事録・駿国雑誌)

1611(慶長16) 崇伝(本光国師)が「二箇相承」を道春(林羅山)から入手して「本光国師日記」の中に記す。

1617(元和3)425日 京都要法寺18祖貫首・日陽が北山本門寺にて「二箇相承」「本

門寺額」等の重宝を拝する

5-60二箇相承頂拝す1
 

(堀日亨編纂『富士宗学要集』5p60)

 

「二箇相承」の全文を載せた最古の文献は、1480(文明12)に本是院日叶(左京阿闍梨日教)が書いた「百五十箇条」、長享2年(1488年)6月に同じく左京阿闍梨日教が書いた『類聚翰集私』、延徳元年(1489年)11月に左京阿闍梨日教が書いた『六人立義破立抄私記』である。

1960(昭和35)4月号「大白蓮華」に掲載されている大橋慈譲氏の論考「富士宗学要集の解説」によれば、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は

「二箇相承を引用したのは、左京(阿闍梨日教)がはじめである。妙蓮寺日眼(の古文書)があるが、これは弘安五年月日云々あるのみである。(二箇相承の)文章を書いてあるのは、左京日教がはじめである」と語っていたという。(1960(昭和35)4月号「大白蓮華」p80)

その左京阿闍梨日教が「百五十箇条」と「類聚翰集私」「六人立義破立抄私記」で、全く正反対の内容の「二箇相承」を書いているという矛盾がある。

「二箇相承書」の正筆は、1581(天正9)317日に、西山本門寺の軍徒と武田勝頼の軍勢が北山本門寺に攻め入って、北山本門寺の重宝類を強奪事件で、北山本門寺から強奪されて所在不明のまま紛失してしまったと、日蓮正宗や創価学会が公式に言っている。

ところが紛失したはずの「二箇相承」を、駿府城にて徳川家康が拝覧しているばかりか、徳川家康の政治顧問・崇伝が「二箇相承」を道春(林羅山)から入手して「本光国師日記」の中に記している。さらに、堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻に収録されている「祖師伝付録」の中に京都要法寺18祖貫首・日陽が北山本門寺にて「二箇相承」「本門寺額」等の重宝を拝したという文が出てくる。

「武田の兵乱」で紛失したはずの「二箇相承」が、その後も北山本門寺に登場してくると言う矛盾。

奇怪な文献「二箇相承」の謎の解明は、このあたりからはじまる。

 

二箇相承5
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』