□河辺メモ事件の札幌転任、長男の日蓮宗教学研究発表大会の研究発表で有名な長倉日延氏

 

日蓮正宗の宗規第72の規定によれば

「法主は、能化のうちから次期の法主を選び血脈を相承する。但し、特に相当と認めるときは、大僧都のうちから選び血脈を相承することができる。」

とあり、さらに第8条によれば

「法主は、必要と認めるときは、能化又は大僧都のうちから次期法主の候補者として学頭を任命することができる」

とある。つまり生前に日号・院号を名乗ることが許される能化は、次期法主の第一候補、次が能化以外の教師僧侶の最上位である大僧都ということになる。20161231日現在、佐藤日学(大石寺百貫坊住職・大石寺主任理事・参議会議長)、長倉日延(北海道札幌市・日正寺住職・宗務院財務部長)、佐藤日栄(川越市本種寺住職・寺族同心会会長)、藤本日潤(東京・常泉寺住職・重役)、八木日照(東京・法道院主管・総監)、光久日康(東京・妙縁寺住職・監正会会長)、前川日秀(東京・華王寺住職)、土居崎日裕(東京・妙光寺住職・宗会議長)、舟橋日謙(東京・宝浄寺住職)、秋元日高(東京・宣徳寺住職・宗務院庶務部長)、高野日安(京都・平安寺住職・布教師会会長)11人の能化僧がいた。このうち、2017年の1年の間に、前川日秀氏、長倉日延氏、光久日康氏の3人が死去。現在、生存している能化は8人である。

2017724日、日蓮正宗宗務院財務部長・長倉日延氏が77才で死去した。長倉日延氏の能化昇進以前の僧名は、長倉教明。1980(昭和55)1016日、大石寺67世阿部日顕法主(日蓮正宗管長・代表役員)から宗務院財務部長に任命されて以来、何と37年の永きにわたって財務部長を勤めた。その功労で、2015221日、能化に昇進した。宗務院財務部長での能化昇進は異例で、前任の丸岡雄道氏、能勢順道氏、水谷慈嶽氏、落合慈仁氏、矢崎豊道氏、大村寿道氏は、いずれも能化に昇進していない。長倉日延氏以前の財務部長経験者で能化に昇進したのは、前川日順氏(前川日秀氏の父親)だけではないかと思われる。

長倉日延(教明)氏は、1966(昭和41)年に実行寺住職に任命されて以来、大石寺三之坊住職、大石寺本住坊住職、仏土寺住職、大願寺住職、日正寺住職と歴任。1992(平成4)11月、今の大石寺68世日如法主の後任として大願寺住職として赴任したが、1999(平成11)年の、いわゆる「河辺メモ事件」の「とばっちり」で、北海道札幌市・日正寺に“飛ばされて”しまった。

又、長倉日延(教明)氏の長男である現大石寺雪山坊住職・長倉信祐氏は、日蓮宗現代宗教研究所が主宰する「日蓮宗・教学研究発表大会」に何度も登壇して研究発表をしていることで、日蓮宗では有名である。現代宗教研究所とは日蓮宗の内部機関で、教学発表大会はもちろん日蓮宗の行事である。プログラムの最初に「法味言上」と言って、日蓮宗の本尊に題目三唱してから、教学発表大会がはじまる。。日蓮宗の行事なのだから、当然、こういうプログラムがある。大概、こういう場合は、日蓮宗の曼荼羅が祀られて、全員で題目三唱する。当然のことながら、日蓮正宗僧・長倉信祐氏も、他の日蓮宗僧といっしょに、日蓮宗の曼荼羅本尊に向かって、日蓮宗の「南無妙法蓮華経・なむみょうほうれんげきょう」と唱えたことであろう。かつて「謗法厳戒」「他宗派参詣禁止」をエラそうに説いていた大石寺石之坊信徒・龍神ひろしに対して、「アンチ日蓮正宗」がこの件を質問したところ、何の返答もせずに逃亡してしまった。長倉日延氏の葬儀で、何人かの僧侶、信徒が弔辞を読んでいるが、「河辺メモ事件」による北海道転任や長倉信祐氏の「日蓮宗・教学研究発表大会」での発表の件については、誰も全く触れていない。触れたくないのだろうか(??)

 

24長倉日延(教明)死去1


24長倉日延(教明)死去2
 

(日蓮正宗宗務院財務部長・長倉日延氏葬儀を報道する日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」)

 

9第65回大会1


10第65回大会2


6長倉信祐・日蓮宗第68回大会1
 

(長倉信祐氏が登場した「日蓮宗・教学研究発表大会」プログラム)

 

 

 

 

□「相馬大作」「池田大作」等々「大作」の名前に殊更縁が深い妙縁寺住職・光久日康氏が死去

 

2017127日、東京・本所吾妻橋の妙縁寺30代住職・光久日康氏が90才で死去した。光久日康氏は2002105日、能化に昇進した人なのだが、能化昇進以前の僧名は、光久諦顕。師僧は、1970年代の「妙信講事件」で日蓮正宗から擯斥された松本日仁氏。擯斥僧が師僧では都合が悪いのか、「大日蓮」では光久日康氏の師僧が誰であるかについて、全く触れていない。

光久日康氏は、若かりしころから日蓮正宗中枢で、正本堂落慶法要委員、財団法人妙観会常任理事、関東大布教区宗務大支院長、監正会員、大石寺大坊仲居等々を勤めたことで有名だが、光久日康氏が住職を勤めた東京・本所吾妻橋の妙縁寺もまた、日蓮正宗の歴史の中で有名な寺院である。妙縁寺は、大石寺三祖日目の弟子・日尊が全国遊行の中、36ヶ寺建立の中のひとつであると伝承されている。境内には「やかくいの井戸」と呼ばれる井戸がある。

「江戸時代、水源の少なく人口の多い江戸にとって、水は貴重品であったが、境内の井戸は人々に水を供給して「やかくいの井戸」と呼ばれ、その碑は墨田区の文化財となっている」

(妙縁寺公式ウエブサイトより)

文政4年(1821年)、江戸から帰国途中の弘前藩九代藩主津軽寧親の狙撃未遂事件の首謀者・盛岡藩の下斗米秀之進、変名「相馬大作」の首塚と伝承される石碑がある。ただしこれは相馬大作の墓ではない。相馬大作の墓は、東京・芝公園の臨済宗南禅寺派寺院・金地院にある。

妙縁寺が有名になったのは、かつてこの寺院に日蓮正宗妙信講(今の顕正会)が所属し、日蓮正宗・創価学会vs妙信講の紛争の舞台になった。この「妙信講事件」により、妙信講は解散処分、浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛理事長(現・顕正会会長)ら妙信講幹部は日蓮正宗から信徒除名処分を受ける。そして妙信講の指導教師、妙縁寺住職・松本日仁氏は、日蓮正宗から擯斥処分となる。これにより、松本日仁氏、妙信講は妙縁寺から退出したが、松本日仁氏にかわって妙縁寺住職になったのが久保川法章氏。数年後、久保川法章氏は大阪市蓮華寺住職として転任。日蓮正宗vs正信会の紛争で、日蓮正宗から擯斥処分になる。光久日康氏の葬儀の弔辞の中で、妙縁寺歴代住職の中から6人の大石寺法主が出ているとの言及があるが、妙縁寺歴代住職の中に2人の擯斥処分を受けた住職がいることも言わなければ、不均衡である。

妙縁寺からみのトラブルはこれだけではない。1973(昭和48)41日、法華講連合会初代委員長・平沢益吉氏死去のあとをうけ、法華講連合会二代委員長には、1975(昭和50)31日、法華講妙縁寺支部所属の佐藤悦三郎氏が任命された。佐藤悦三郎委員長の代は、日蓮正宗vs創価学会の第1次紛争の時代であり、法華講連合会内部でも、さまざまなトラブルがあった。1980(昭和55)年、法華講連合会役員人事をめぐって宗務院と法華講連合会が対立。佐藤悦三郎委員長をはじめとする法華講連合会役員が総辞職。かわって法華講連合会三代委員長に、法華講法道院支部の阿部唯七郎氏が任命された。佐藤悦三郎氏は、法華講連合会歴代委員長(平沢益吉、佐藤悦三郎、阿部唯七郎、柳沢喜惣次、永井藤蔵)で、唯一、大石寺法主からの戒名が贈られていない。

又、1991年の日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」勃発以降、創価学会元教学部長・原島嵩氏夫妻が、妙縁寺法華講員になったことでも有名。これら一連の、日蓮正宗・創価学会vs妙信講の紛争、妙信講解散処分、妙信講幹部の信徒除名処分、妙縁寺住職・松本日仁氏擯斥処分、久保川法章氏擯斥処分、佐藤悦三郎委員長をはじめとする法華講連合会役員総辞職、原島嵩氏夫妻の妙縁寺法華講員になったこと等々…これらはいずれも「池田大作」からみの事件・事柄である。

こうしてみると、妙縁寺という寺院は、「相馬大作」「池田大作」と、「大作」という名に一際、縁が深い寺院なのかもしれない。いっそのこと、「大作山妙縁寺」と改名してみてはいかがだろうか。

 

7光久日康死去1


7光久日康死去2
 

(妙縁寺住職・光久日康氏の葬儀を報道する日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」)