■検証4・本尊七箇相承の本尊書写指南文に違背した本尊を書写している大石寺開祖日興4

 

□提婆達多がなく地獄界が欠けた十界不互具の正応31013日の日興・日目相承本尊

 

日興は、自ら書写した本尊に十界の衆生を全て書写せず、十界互具になっていない、いわば「十界不互具」になってしまっている本尊を複数書写している。日蓮正宗総本山大石寺に格蔵されている正応3(1290)1013日・日興書写の曼荼羅本尊も、そのひとつである。この曼荼羅本尊は、日蓮正宗が「日興から日目に血脈相承があった証拠」などと自称し、「お座替わり本尊」と呼んでいる曼荼羅本尊。この曼荼羅本尊を板に模刻した本尊が、現在、大石寺客殿の須弥壇中央に祀られている。この正応31013日の日興曼荼羅本尊・通称名・「お座替わり本尊」には、提婆達多が記されていない。つまり大石寺風の言い方をすれば、「提婆達多が列座していない」本尊ということになる。ということは、この「日興から日目に血脈相承があった証拠」と自称する「お座替わり本尊」なる本尊は、十界互具になっていない、いわば「十界不互具」になってしまっている本尊ということになる。こんな矛盾した話しはない。「本尊七箇相承」なる文書には

「一、十界互具の事義如何、示して云はく釈迦多宝は仏界なり・経に云はく然るに我実に成仏してより已来乃至或いは已身を説き云云、上行等の四菩薩は菩薩界なり、経に云はく一を上行と名づけ等云云、地涌千界乃至真浄大法等云云、舎利弗は声聞界なり・花光如来云云、縁覚界は其の縁覚を求むる者乃至具足の道を聞かんと欲す云云・縁覚界所具の十界なり云云、大梵天王は天界なり、経に云はく我等も亦是の如く必ず当に作仏することを得べし云云、転輪聖王は人界等なり、経に云はく衆生をして仏の知見を聞かしめんと欲す云云、若し人仏の為の故に皆已に仏道を成ず云云、婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり云云、竜女竜王等は畜生界なり、経に云はく竜女乃至等正覚を成ず云云、十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく一名藍婆云云、提婆達多乃至天王如来は地獄界なり、已上是れは一代の大綱応仏の上の沙汰なり(此に於いて十界に摂するに二義あり常の如し)。

二、真実の十界互具は如何、師曰はく唱へられ給ふ処の七字は仏界なり・唱へ奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち四教の因果を打破つて真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり秘す可し秘す可し」

(「本尊七箇相承」大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p32)

と書いてあり、「提婆達多が列座していない」本尊、十界互具になっていない「十界不互具」の本尊は、「本尊七箇相承」の文に違背する曼荼羅書写であることは、明らかである。もし本当に「本尊七箇相承」が日蓮から日興への「唯授一人の血脈相承」の相伝として存在していたならば、日興が日蓮の相伝の指南に違背する曼荼羅本尊を書写するはずがない。

 

4・正応3年10月13日の本尊3


4・正応3年10月13日の本尊1


4・正応3年10月13日の本尊2
 

 

(正応3(1290)1013日・日興書写の曼荼羅本尊・興風談所「日興上人御本尊集」より)

 

本尊七箇相承1


本尊七箇相承2
 

 

(「本尊七箇相承」大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p32)

 

2祖日興1
 

 

(日興)

 

 

 

 

□提婆達多がなく地獄界が欠けた十界不互具の「お座替わり本尊」模刻板本尊を祀る大石寺客殿

 

現在の大石寺客殿の須弥壇に祀られている板本尊は、この正応31013日の日興・日目血脈相承を自称する本尊「お座替わり本尊」を板本尊に模刻した板本尊である。大石寺では、法主の大導師のもとに、毎朝の丑寅勤行、歴代法主の年回忌法要、元朝勤行、春秋の彼岸会、盂蘭盆会、特別法要などの行事を行っている。その客殿の須弥壇に祀られている本尊が、「本尊七箇相承」なる文書に反して、提婆達多がなく地獄界が欠けた十界不互具の本尊になっているわけだから、こんな矛盾した話しはない。これを少々意地悪く解釈すれば、地獄界が欠けた十界不互具の本尊の前で修行しても、「成仏できない」ということになるのではないのか。

大石寺の化儀、教義を深く掘り下げていくと、こういった矛盾があっちからもこっちからも噴出してくるのである。

 

客殿8(大石寺案内)
 

(大石寺客殿)