■検証7・本尊七箇相承の本尊書写指南文に違背した本尊を書写している大石寺開祖日興7

 

□仏界・人界・修羅界・地獄界が欠け十界不互具の曼荼羅・永仁6年・富士妙蓮寺蔵の日興本尊

 

日興は、自ら書写した本尊に十界の衆生を全て書写せず、十界互具になっていない、いわば「十界不互具」になってしまっている本尊を複数書写している。富士門流八本山のひとつ・富士妙蓮寺(日蓮正宗本山)に格蔵されているに格蔵されている永仁6(1298)年・日興書写の曼荼羅本尊も、そのひとつである。この永仁2年・富士妙蓮寺蔵の日興曼荼羅本尊には、釈迦如来・多宝如来・転輪聖王・阿修羅王・大龍王・提婆達多が記されていない。つまり大石寺風の言い方をすれば、「釈迦如来・多宝如来・転輪聖王・阿修羅王・大龍王・提婆達多が列座していない」本尊ということになる。ということは、この本尊は、仏界・人界・修羅界・地獄界が欠け十界互具になっていない、いわば「十界不互具」になってしまっている本尊ということになる。「十界不互具」どころか、釈迦如来・多宝如来が略されている曼荼羅本尊とは、前代未聞である。「本尊七箇相承」なる文書には

「一、十界互具の事義如何、示して云はく釈迦多宝は仏界なり・経に云はく然るに我実に成仏してより已来乃至或いは已身を説き云云、上行等の四菩薩は菩薩界なり、経に云はく一を上行と名づけ等云云、地涌千界乃至真浄大法等云云、舎利弗は声聞界なり・花光如来云云、縁覚界は其の縁覚を求むる者乃至具足の道を聞かんと欲す云云・縁覚界所具の十界なり云云、大梵天王は天界なり、経に云はく我等も亦是の如く必ず当に作仏することを得べし云云、転輪聖王は人界等なり、経に云はく衆生をして仏の知見を聞かしめんと欲す云云、若し人仏の為の故に皆已に仏道を成ず云云、婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり云云、竜女竜王等は畜生界なり、経に云はく竜女乃至等正覚を成ず云云、十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく一名藍婆云云、提婆達多乃至天王如来は地獄界なり、已上是れは一代の大綱応仏の上の沙汰なり(此に於いて十界に摂するに二義あり常の如し)。

二、真実の十界互具は如何、師曰はく唱へられ給ふ処の七字は仏界なり・唱へ奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち四教の因果を打破つて真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり秘す可し秘す可し」

(「本尊七箇相承」大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p32)

と書いてあり、「提婆達多が列座していない」本尊、十界互具になっていない「十界不互具」の本尊は、「本尊七箇相承」の文に違背する曼荼羅書写であることは、明らかである。もし本当に「本尊七箇相承」が日蓮から日興への「唯授一人の血脈相承」の相伝として存在していたならば、日興が日蓮の相伝の指南に違背する曼荼羅本尊を書写するはずがない。

 

7・永仁6年・富士妙蓮寺蔵本尊1


7・永仁6年・富士妙蓮寺蔵本尊2
 

 

(永仁6年・富士妙蓮寺蔵の日興本尊・日興書写の曼荼羅本尊・興風談所「日興上人御本尊集」より)

 

本尊七箇相承1


本尊七箇相承2
 

 

(「本尊七箇相承」大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p32)


2祖日興1
 

(日興)