■検証41・日蓮正宗大石寺格蔵の「日興跡条条事・日興真筆」の真っ赤な大ウソ4

 

□大石寺59世堀日亨が自ら「日目は生涯42度の国家諫暁をしていない」と否定している

 

よく日蓮正宗や創価学会の信者が「日目上人は生涯で42回の国家諫暁をなされた」と言う。そしてこの42回の国家諫暁からして、1281(弘安4)年の「園城寺申状」や1282(弘安5)の天皇からの下し文も有りえると反論する。そしてこれら42回の国家諫暁の根拠として、日興が日目に授与した二つの本尊の授与書(脇書き)を挙げている。

ひとつが1324(元亨4)1229日の本尊の脇書き

「最前上奏の仁卿阿闍梨日目(日道加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p206)

ふたつめが1332(正慶1)113日の本尊の脇書き

「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す、一が中の一弟子なり、(日道加筆)日道之を相伝す」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p188)

である。

しかし日目が42度の国家諫暁をしたなどという根拠は、実際は本尊の脇書きなどではなく、大石寺9世法主日有の弟子の大石寺僧・左京阿闍梨日教、保田・妙本寺14代貫首・日我、京都・要法寺13祖日辰の記述によるものである。

□左京阿闍梨日教の著書「五段荒量」

「殊に日目上人は四十二度の御天奏・最後の時…」(『富士宗学要集』2p296)

□保田・妙本寺14代貫首・日我の著書「申状見聞」

「大聖と開山と自身との御天奏として上洛だにも四十二度也」(『富士宗学要集』4p105)

□京都・要法寺13祖日辰が大石寺13世法主日院に送った状

「高祖開山の代と為って鳳闕の奏聞鎌倉の訴状既に四十二度に及ぶ」(『富士宗学要集』9p63)

 

しかし左京阿闍梨日教、日我、日辰の記述には何の根拠も証拠もなく、日目が42回の天奏なり国家諫暁をしたなどという歴史的事実は全く確認されていない。

しかもこの日目四十二度天奏説については、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨自身が著書の中で否定しているのである。堀日亨は次のように書いている。

「日教の記および日我の記のごとき四十二度というと、いかにも想像しえられぬ。弘安四年より正慶二年にいたる五十三年の間であれば、平均一年四ヶ月に一回上洛の割合となる。往復一ヶ月の道程なるにさようのことありうべきはずがないが、それも弘安五年の時のほかはかりに伝説としても、一回もその時日を示していない。それに鎌倉への訴状ならば大いに日数も減少して万事手軽であるが、両書とも『御天奏』となっておる。『上奏』の敬語は鎌倉以後の文学暗黒時代には禁裏と柳営とに通用したりやと見ゆれども、明らかにともに『御天奏』と記し、日我はさらに『上洛』の文字すら加えているから、大いに疑わざるをえぬ」

(堀日亨の著書『富士日興上人詳伝上』p167168)

 

 

 

□「上奏」とは武家に申状を呈することであって天皇に意見を申し上げるという意味ではない

 

このように53年間に42度の天奏は不可能であるとして、大石寺59世堀日亨自身が全面的に否定しているのである。さらに本尊の脇書きであるが、いずれも「上奏」となっており「天奏」とはなっていない。日蓮宗関連の古文書に出てくる「天奏」とは、京都に上洛して時の天皇に申状を呈することを指している。では「上奏」とはいかなる意味なのか。

「上奏」という単語を辞書で調べると

「1 天皇に意見や事情などを申し上げること。奏上。「民情を―する」2 明治憲法下で、官庁・議院などが天皇に希望または意見を奏聞(そうもん)したこと。」(国語辞典)

「上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。」

「意見や事情を天子に申し上げること。奏上。上表。」(日本国語大辞典)

と、載っている。だから、「やはり上奏とは、天皇に申状を呈することではないか」と早合点してはいけない。この「天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げる」という意味で、「上奏」という言葉を使うのは、朝廷公認の「戒壇」で授戒の経験のない日興や日目が天皇に意見・事情等を申し上げるという意味で使うのではなく、天皇の秘書官たる蔵人が取り次ぐ「清涼殿奏」ないしは「蔵人伝奏」が、天皇に意見・事情等を申し上げるときに使う言葉なのである。したがって、天皇の側近秘書官・蔵人や公家が天皇に意見・事情等を申し上げる、という意味で「上奏」という言葉を使う。

しかし日興や日目は、少なくとも天皇に直接、意見・事情等を申し上げる身分にないのだから、日興本尊の脇書にある「上奏」の意味は、天皇に意見・事情等を申し上げるという意味ではない。

では日興本尊の脇書にある「上奏」の意味は、一体何なのか、ということになるが、朝廷公認の「戒壇」で授戒の経験のない日興や日目でも、伝奏を介して意見や事情を奏上・申し上げることができた相手とは、天皇や公家ではなく、武家である。したがって、この場合の「上奏」とは、武家に申状を呈することを意味する。しかも「上奏」する武家とは、幕府の将軍、執権、得宗であるが、鎌倉幕府が倒れた後は、幕府のみならず、鎌倉管領なども含まれるのである。

したがって、本尊の脇書きも、日目が42度の天奏どころか、一度たりとも天奏したなどという根拠にすら、ならないものである。

 

7日興6日目1日道1日行1
 

 

 (1332(正慶1)113日の本尊の脇書き「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す、一が中の一弟子なり、(日道加筆)日道之を相伝す」・大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』8p188)

 

206-207保田妙本寺
 

 (1324(元亨4)1229日の本尊の脇書き「最前上奏の仁卿阿闍梨日目(日道加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」・大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』8p206)