■検証12・本尊七箇相承の本尊書写指南文に違背した本尊を書写している大石寺開祖日興12

 

□仏滅度後讃文が省略され大僻見不相伝の本尊になっている正和三年二月十三日の日興本尊

 

「本尊七箇相承」なる文書には

「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。

 (「本尊七箇相承」大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p32)

と書いてあり、曼荼羅本尊を書写する際には、「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なり」の言葉、いわゆる仏滅度後讃文、仏滅讃文、図顕讃文を書写せよ、との指南がある。そしてこの仏滅度後讃文を曼荼羅本尊書写の際に省略することは、「大僻見不相伝の至極なり」という、厳しい誡めの文がある。

ところが、日興が正和三年二月十三日に書写した曼荼羅本尊は、この「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なり」の言葉、いわゆる仏滅度後讃文、仏滅讃文、図顕讃文が全く省略されてしまっており、記されていない。そうすると、「本尊七箇相承」の指南からすれば、正和三年二月十三日に日興が書写した本尊は、「大僻見不相伝の至極」の本尊と云うことになる。

日蓮正宗の者は「余白がないため記されなかった」などと言い訳するが、これは詭弁である。日蓮滅後、身延山久遠寺を離山して大石寺を創建するなど、厳格な人柄で知られている日興が、「本尊七箇相承」が本当に実在していたならば、「本尊七箇相承」の指南に違背する本尊書写をするだろうか。たとえ一幅たりとも、絶対にしないであろう。

では、これは何を意味するのか。つまり、日興在世の代に、「本尊七箇相承」なる文書は存在していなかったことを証明しているのである。

 

123-186.187
 

(日興が正和三年二月十三日に書写した曼荼羅本尊)

 

本尊七箇相承1


本尊七箇相承2
 

(「本尊七箇相承」大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p32)

 

2祖日興1
 

(日興)