■検証44・日蓮正宗大石寺格蔵の「日興跡条条事・日興真筆」の真っ赤な大ウソ7

 

□日興が日目に授与した二つの本尊の脇書は日目が天奏をした証拠ではない

 

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(日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏の妄説)

今、本尊の脇書を挙げると

「元亨四年十二月二十九日 最前上奏の仁、卿阿闍梨日目」(『富士宗学要集』8p206)

「正慶元年十一月三日 最初上奏の仁 新田阿日目に之を授与する。一が中の一弟子なり」(『富士宗学要集』8p188)

とある。最前は最初と同じ意味であり、日目上人が興門流で最初の天奏者であることを示している。仮に上奏という文字にこだわって上奏を幕府への奏状とすると、門下では多くの人が幕府に奏状をささげており、その中で最初にしたということが、そんなに重要だとは思われない。

「一が中の一弟子なり」とは天皇家への奏状に対する評価と解されるのである。

(高橋粛道氏の論文「日興跡条々事の考察」)

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高橋粛道氏は、日興が日目に授与した本尊の脇書に「最前上奏の仁」「最初上奏の仁」と書いてあるのを、あたかも「日目上人が興門流で最初の天奏者であることを示している」証拠であるかのように論じているが、これはこじつけも甚だしい。

本尊脇書には、あくまで「上奏」と書いてあるのであって、「天奏」とは書いていない。

日蓮宗関連の古文書に出てくる「天奏」とは、京都に上洛して時の天皇に申状を呈することを指している。では「上奏」とはいかなる意味なのか。

「上奏」という単語を辞書で調べると

「1 天皇に意見や事情などを申し上げること。奏上。「民情を―する」2 明治憲法下で、官庁・議院などが天皇に希望または意見を奏聞(そうもん)したこと。」(国語辞典)

「上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。」

「意見や事情を天子に申し上げること。奏上。上表。」(日本国語大辞典)

と、載っている。だから、「やはり上奏とは、天皇に申状を呈することではないか」と早合点してはいけない。この「天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げる」という意味で、「上奏」という言葉を使うのは、朝廷公認の「戒壇」で授戒の経験のない日興や日目が天皇に意見・事情等を申し上げるという意味で使うのではなく、天皇の秘書官たる蔵人が取り次ぐ「清涼殿奏」ないしは「蔵人伝奏」が、天皇に意見・事情等を申し上げるときに使う言葉なのである。

したがって、天皇の側近秘書官・蔵人や公家が天皇に意見・事情等を申し上げる、という意味で「上奏」という言葉を使う。

しかし日興や日目は、少なくとも天皇に直接、意見・事情等を申し上げる身分にないのだから、日興本尊の脇書にある「上奏」の意味は、天皇に意見・事情等を申し上げるという意味ではない。

 

206-207保田妙本寺
 

(「元亨四年十二月二十九日 最前上奏の仁、卿阿闍梨日目」の脇書がある本尊(『富士宗学要集』8p206)

 

7日興6日目1日道1日行1
 

(「正慶元年十一月三日 最初上奏の仁 新田阿日目に之を授与する。一が中の一弟子なり」の脇書がある本尊(『富士宗学要集』8p188)

 

 

 

□日興本尊の脇書にある「上奏」は天皇に意見・事情等を申し上げるという意味ではない

 

では日興本尊の脇書にある「上奏」の意味は、一体何なのか、ということになるが、朝廷公認の「戒壇」で授戒の経験のない日興や日目でも、伝奏を介して意見や事情を奏上・申し上げることができた相手とは、天皇や公家ではなく、武家である。

したがって、この場合の「上奏」とは、武家に申状を呈することを意味する。しかも「上奏」する武家とは、幕府の将軍、執権、得宗であるが、鎌倉幕府が倒れた後は、幕府のみならず、鎌倉管領なども含まれるのである。

さて、日興本尊の脇書にある「上奏」の意味を「天皇に意見・事情等を申し上げる」という意味に解釈した場合、もうひとつの矛盾が発生する。

それは日興、日目の在世の時代は、まだ北条氏を頂点とする鎌倉幕府が健在で、日本国内の内政の実権は、依然として鎌倉幕府・執権北条氏・北条得宗家が握っていた。

したがって日興や日目が、「速やかに法華経に帰依して国土安穏ならしめよ」という主旨で奏上するならば、その相手は、内政の実権を握っている鎌倉幕府であるはずであり、決して京都の朝廷ではない。

しかも日興や日目の師である日蓮が、立正安国論や申状を奏上した相手は、朝廷ではなく、内政の実権を握っていた鎌倉幕府・執権北条氏であった。

したがって、日蓮の先例からしても、弟子の日興や日目が申状を奏上した相手は、やはり鎌倉幕府であり、京都の朝廷であるはずがない。

したがって日興の本尊脇書にある「最前上奏の仁」「最初上奏の仁」の言葉の意味は、日興が日目の上奏の功績を褒め称えたものという意味に他ならない。

さらに高橋粛道氏は、「「一が中の一弟子なり」とは天皇家への奏状に対する評価と解されるのである」などと、本尊脇書の「一が中の一弟子なり」まで天奏にこじつけようとしている。

「一が中の一弟子なり」という文は、日興の日目に対する人物全体像に対する評価であることは明らかで、天皇家への奏状に対する評価などではない。ここまでくると、全く関係のないものまで総動員して、ありとあらゆることを何が何でも天奏にこじつけようとする高橋粛道氏の姿勢に呆れてしまうばかりである。この二つの本尊の脇書は、日目が天奏をしたという証拠などではない。

こじつけも大概にせよ、と言いたい。


日興跡条条事1


日興跡条条事3
 

(昭和5549日付け聖教新聞に載っている『日興跡条条事』)