■検証47・日蓮正宗大石寺格蔵の「日興跡条条事・日興真筆」の真っ赤な大ウソ10

 

□大石寺には創建当初から「本堂」「御堂」「客殿」と呼ばれる堂宇はなかった2

 

それでは「本堂」という堂宇は、そもそもどういう堂宇・伽藍なのだろうか。

日本に仏教が伝来した当初の飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、その寺院の中心本尊・根本本尊を祀るための堂宇であったので、金堂(仏殿)の建物の内部は、仏像本尊を安置する壇(須弥壇)がほとんどのスペースを占めている。

これは飛鳥・奈良・平安時代においては、仏教を信仰していたのは、天皇・皇族・貴族・公家ほんの一部の上流階級・支配階級のみであり、この当時の寺院も、ほとんどが天皇・皇族・貴族・公家の財力・経済力で建てられた官寺であった。

この時代において、仏教を信仰していたのは、僧侶と皇族・公家・貴族といった上流階級のみであり、まだ仏教は一般庶民まで広く流布していなかった。金堂(仏殿)の建物に、たくさんの人を収容するスペースは不要だったのである。

これは、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺の金堂、法隆寺の金堂、夢殿、平等院鳳凰堂の中は、皆そのようになっている。

東大寺の大仏殿(金堂)も、中に祀られている大仏は巨大であるが、大仏殿の前に参詣者が入るスペースはほとんどない。平安時代の堂宇がそのまま今日に遺っている平等院鳳凰堂も同じ。平等院鳳凰堂の中も、ほとんどが本尊・阿弥陀如来像が祀られているスペースになっていて、僧侶や参拝者が座るスペースがほとんどない。

何とも不便な堂宇を造ったものだと思いがちだが、藤原頼通が創建した当時は、こういう造りのほうが都合が良かったということである。この平等院も江戸時代までは、ほとんど藤原氏丸抱えのような寺院で、ほとんど藤原氏の供養のみによって成り立っていたのであり、一般庶民とはほとんど無縁だったのである。

これが鎌倉時代に入って、鎌倉仏教が興出して仏教が武家から農民、職人、商人、一般庶民まで幅広く流布され、寺院にも参詣者が増えるようになった。そうなってくると、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた寺院の金堂のように、参詣者が入るスペースがほとんどない建物では、参詣者を建物の中に収容しきれない、ということになる。

そこで、金堂(仏殿)の前に、参詣者を収容して仏像本尊を礼拝する建物である礼堂が建てられるようになる。さらに時代が下って金堂(仏殿)と礼堂が一つの建物として建てられるようになった。

つまり金堂(仏殿)の須弥壇の廻りの部分が内陣になり、礼堂の部分が外陣と呼ぶようになった。これが今の本堂の原型である。

 

 

 

 

□本堂も客殿もない大石寺で日興が日目に「修理を加え、勤行を致し」と命ずるはずがない

 

著述家・渋谷申博氏の研究によれば、中世の寺院の本堂(金堂・仏殿)には、内陣と外陣の間には仕切りや格子戸があって、かつては内陣と外陣は別々の二つの建物であったことを伺わせており、この建て方は、中世の密教系の寺院に多い建て方であるという。

中世・江戸時代に建てられた仏教寺院の堂宇の内陣・外陣の間には、明確な仕切りがある場合がほとんどである。これは日蓮宗、富士門流、大石寺等の堂宇に共通している。

例えば、大石寺御影堂、北山本門寺御影堂、身延山久遠寺祖師堂、池上本門寺大堂(祖師堂)など、中央内陣を取り囲むように外陣があり、内陣・外陣の間には仕切りがある。

現在の仏教寺院における一般的な本堂は、本尊を祀っている神聖空間と大導師・僧侶が座る所が内陣、信者・参詣者が礼拝をする場所が外陣として区別されているが、明確な仕切りがないことが多い。特に近世以降、建立された堂宇は、こういう造りになっていることが多い。

内陣と外陣の間には、畳の段差があるだけとか、畳はフラットになっていても、内陣と外陣の間には、可動式の仕切りが置いてあるだけとか、あるいは内陣は畳席で外陣は椅子席とか、そういう形になっていることが多い。大石寺奉安堂、奉安殿、正本堂、客殿、身延山久遠寺本堂、京都本能寺本堂等、そういう造りになっています。

園城寺勧学院客殿の中は、表列(南側)、中列、奥列(北側)に各3室、39室からなり、表から奥にすすむにしたがい、公的な対面所から私的な部屋になる。ただし、各室の襖を開放すれば大部屋になり、勧学院、つまり学問所として対応できるしくみになっている。つまり各室の襖を開放することで、客を応対するために造った殿舎を儀式や行事を修する堂宇として活用できる。

客殿において、儀式や行事を修するという点においては、大石寺9世日有は、園城寺の勧学院客殿をモデルにした可能性が高いが、大石寺客殿は単に客人をもてなす堂宇ではなく、大勢の信者が参拝して勤行・法要・儀式・法要を行う堂宇である。そういう意味においては、大石寺客殿の機能は、限りなく本堂に近い。

いずれにしろ、大石寺客殿を、実質的な「本堂」と考えても、あるいは「信徒は本尊の客人だから」という意味においての客人をもてなす「客殿」と考えても、それは大石寺9世日有が京都仏教寺院から輸入した堂宇である。

大石寺二祖日興が在世の時代に、大石寺には存在しなかった堂宇であり、これは日蓮正宗も認めている。つまり日興在世の時代、大石寺に「勤行衆会」を行う堂宇はなく、「勤行衆会」も行われていなかった。だから日興が日目に

「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

などと命ずるわけがないのである。

 

客殿・日如9


客殿・日如4


客殿・日如3
 

(現在の大石寺客殿での丑寅勤行・大石寺写真集より)