■検証48・日蓮正宗大石寺格蔵の「日興跡条条事・日興真筆」の真っ赤な大ウソ11

 

□大石寺門流にはじめて「本堂」「客殿」を京都・奈良から輸入した大石寺9世日有

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有がイメージした「本堂」とは、大石寺9世日有が偽作した文書「百六箇抄」に書いている「富士山本門寺本堂」であり、そこには大石寺9世日有が「日蓮真筆」を詐称して偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀ることを想定している。つまり大石寺9世日有が偽作した「百六箇抄」では

「下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり…五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(『富士宗学要集』1p18p21)

 

百六箇抄6(富士山本門寺本堂)


百六箇抄7(日興嫡嫡相承本堂正本尊)
 

と書いており、同じく大石寺9世日有が偽作した「日興跡条条事」第二条には

「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」

と書いている。「日興跡条条事」で「弘安二年の大御本尊」を本門寺に懸け奉る場所とは、「百六箇抄」で言う、「富士山本門寺本堂」であり、大石寺9世日有が偽作した「弘安二年の大御本尊」を「富士山本門寺本堂」の正本尊として祀るという意味である。そして大石寺9世日有は、

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」

(『新池抄聞書』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・下」p84)

294-295新池抄聞書1
 

と、「戒壇の大本尊」を祀る堂宇・本堂こそが「事の戒壇」であると言った。「戒壇の大本尊」を祀る堂宇・「事の戒壇」がある大石寺こそが、日蓮一門の総本山であると言ったのである。

そして、これはどういうことになったかというと、日蓮正宗大石寺の末寺の曼荼羅本尊、大石寺法主が書写して末寺に下附する曼荼羅本尊は、板本尊だろうが紙幅の本尊だろうが、全てが大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊の分身ということになった。

つまり「本門寺の本堂に懸け奉る『戒壇の大本尊』なる板本尊の分身」を祀るということが、日蓮正宗大石寺の末寺に本堂が勃興する起源になったのである。

これは末寺の場合だが、大石寺には大石寺12世日鎮がはじめて御影堂を造立し、大石寺17世日精が現在の御影堂を再建しているが、「本堂」と称する堂宇はなかった。大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」は大石寺宝蔵の中に深く格蔵され、昭和の創価学会折伏大進撃の信者激増によって、ようやく宝蔵から奉安殿、そして正本堂へと祀られた。

大石寺ではじめて「本堂」と称する堂宇は、1972(昭和47)10月に落慶した正本堂だが、これも1998(平成10)年に取り壊され、わずか26年で消滅している。

 

正本堂115(連合会写真集)
 

(1972年から1998年まで大石寺にあった正本堂「大石寺写真集」より)

 

 

 

□大石寺9世日有の創建以来、実質的に「本堂」としての機能を果たしてきた大石寺客殿

 

このように大石寺門流の歴史を検証していくと、大石寺創建当初から、大石寺門流には「本堂」という堂宇・伽藍は存在しなかった。もっとも大石寺には、根本本尊・中心本尊そのものが存在しなかったわけだから、「本堂」も「客殿」もなかったのである。

この「本堂」「客殿」を京都・奈良の仏教界から輸入したのは、大石寺9世日有である。

大石寺の根本本尊は、大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊であり、この板本尊は、大石寺9世日有は「秘仏」として大石寺宝蔵の蔵の奥深くにしまい込んだ。

大石寺宝蔵とは、あくまでも「蔵」であり「土蔵」である。ここで、いくら何でも儀式・法要・勤行を執行するわけにはいかない。そこで大石寺9世日有は、大石寺宝蔵の手前に「客殿」を創建し、ここを仏教寺院本堂の替わりとして、儀式・法要・勤行を執行する堂宇とした。

よって昭和以降、「戒壇の大本尊」なる板本尊を大石寺宝蔵から奉安殿→正本堂→奉安殿→奉安堂と遷座して「戒壇の大本尊」の「御開扉」が日常的に行われる以前に於いて、大石寺「客殿」が実質的な「本堂」の役割を果たしていた。かつて大石寺表塔中坊でも、本堂を「客殿」と呼称していたことが、大石寺48世日量が執筆した「富士大石寺明細誌」という古文書に載っている。(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻収録)

つまり大石寺では、根本本尊である「戒壇の大本尊」なる板本尊を格蔵する大石寺宝蔵、奉安殿、正本堂、奉安堂は「御開扉」を行うのみで、勤行、法要、行事を行う本堂としての役目は「客殿」で行っていた、ということである。

では大石寺9世日有が本堂を京都・奈良の仏教界から輸入したというのなら、なぜ大石寺9世日有は、「中堂」「金堂」「仏殿」という名称を使わなかったのか、という問題が発生するが、これは「中堂」「金堂」「仏殿」という名称を使えば、これは他宗から輸入したことが容易にバレてしまう可能性が高くなる。特にこれらの名称は、日蓮正宗が「念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊・天台は過時の迹」と批判する宗派で使われている名称であり、これらの宗派から輸入したことがバレてしまうと、大石寺の信用は失墜してしまう。よって大石寺9世日有は、「中堂」「金堂」「仏殿」という京都・奈良仏教寺院で使われている名称を使わなかったと考えられるのである。

以上のことから「百六箇抄」「日蓮聖人の御影並びに御下文園城寺申状」と題する文書は、大石寺9世日有の偽作であり、かくして「日興跡条条事」も偽作であることが明白である。

 

日興跡条条事2


日興跡条条事3
 

 

(昭和5549日付け聖教新聞に載っている『日興跡条条事』)