□「慧妙」は日蓮正宗の機関紙ではなく、「創価新報」は創価学会の機関紙ではない

 

「日蓮正宗と創価学会は2002131日、本尊・教義以外の問題は和解している」---かく言うと、法華講員や創価学会員あたりからこんな反論が飛んでくる。

「日蓮正宗謀略活動新聞『慧妙』には創価学会批判が載っているし、創価学会謀略活動新聞『創価新報』には、日蓮正宗批判が載っているではないか」

確かに載っていますね。しかしよく注意していただきたいのだが、「慧妙」は日蓮正宗の機関紙ではないし、「創価新報」は創価学会の機関紙ではない、ということ。日蓮正宗の機関紙(機関誌)は「大日蓮」であり、創価学会の機関紙は「聖教新聞」である。したがって「慧妙」と「創価新報」で、日蓮正宗と創価学会がお互いに批判合戦をやっても、それは日蓮正宗と創価学会の紛争ではなく、これはあくまでも本尊問題や教義問題を取り上げた「教義論争」の範疇から出ていない。

2002131日以降においては、日蓮正宗と創価学会の間に、新たな訴訟は全く提起されておらず、「大日蓮」も「聖教新聞」もお互いの非難合戦は停止している。「慧妙」と「創価新報」の批判合戦は今でも続いているが、1990年代のころの批判合戦と比べると大きくトーンダウンしている。

 

2008.1.29慧妙・機関紙ではない


2008.3.6慧妙・機関紙ではない
 

(「『慧妙』は日蓮正宗機関紙ではない」との裁判所見解を載せている「大日蓮」)

 

□裁判所は宗教の教義、信仰の内容には不介入であり、宗創和解に本尊・教義問題は含まれない

 

第二に、2002131日よりもはるか以前に出ている最高裁判所判決により、「裁判所は宗教の教義の問題には立ち入らない」ということが確定している。その判例を示そう。

 

1 1981(昭和56)47日 松本勝弥(後の松本修明氏)「板曼荼羅」事件の最高裁判決

「信仰の対象についての宗教上の価値に関する判断が…「戒壇の完結」「広宣流布の達成」等、宗教上の教義に関する判断が、それぞれ必要であり、いずれもことがらの性質上、法令を適用することによっては解決することのできない問題である。…結局本件訴訟は、その実質において、法令の適用による終局的な解決の不可能なものであって、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない」

 

1981.4.7最高裁判決1
 

(1981(昭和56)47日 松本勝弥(後の松本修明氏)「板曼荼羅」事件の最高裁判決)

 

2 1989(平成1)98日 日蓮正宗(正信会)「蓮華寺」(久保川法章)事件の最高裁判決

「宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきであることは、憲法20条のほか、宗教法人法12項、85条の規定の趣旨に鑑み明らかなところである」

「すなわち被上告人(久保川法章・正信会蓮華寺側)の前記言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説に当たるかどうかの判断が不可欠であるが、右の点は、単なる経済的又は市民的社会事象とは全く異質のものであり、日蓮正宗の教義、信仰と深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することのできない性質のものであるから、結局、本件訴訟の本質的争点である本件擯斥処分の効力の有無については、裁判所の審理判断が許されないものというべきであり、裁判所が、上告人(日蓮正宗側宗教法人蓮華寺)ないし日蓮正宗の主張、判断に従って被上告人(久保川法章・正信会蓮華寺側)の言説を「異説」であるとして本件擯斥処分を有効なものと判断することも、宗教上の教義、信仰に関する事項について審判権を有せず、これらの事項にかかわる紛議について厳に中立を保つべき裁判所として、到底許されないところである」

 

1989.9.8最高裁判決1


1989.9.8最高裁判決2
 

(1989(平成1)98日 日蓮正宗(正信会)「蓮華寺」(久保川法章)事件の最高裁判決)

 

 

 

 

3 1993(平成5)97日 日蓮正宗管長事件(大石寺日顕法主vs正信会)の最高裁判決

「日顕が(日蓮正宗)代表役員及び管長の地位にあるか否かを審理、判断するには、日顕が(大石寺)法主の地位にあるか否かを審理、判断する必要があるところ、記録によれば、日蓮正宗においては、(大石寺)法主は、宗祖(日蓮)以来の唯授一人の血脈を相承する者であるとされているから、日顕が(大石寺)法主の地位にあるか否かを審理、判断するには、血脈相承の意義をあきらかにした上で、同人(日顕)が血脈を相承したものということができるかどうかを審理しなければならない。そのためには、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に立ち入って審理、判断することが避けられないことは、明らかである。そうであるとすると、本件訴えは、結局、いずれも法律上の争訟性を欠き、不適法として却下を免れない」

 

1993.9.7最高裁判決1
 

(1993(平成5)97日 日蓮正宗管長事件(大石寺日顕法主vs正信会)の最高裁判決)

 

裁判所法3条によれば、裁判所の権限として「一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する」と規定されており、裁判所が審理、判断するのはあくまでも「法律上の争訟」である。これら3件の最高裁判決により、裁判所は「法律上の争訟」ではない、宗教の教義、信仰の内容にまでは立ち入らず、これらの問題には不介入、中立であるのである。

したがって2002年に東京高等裁判所が日蓮正宗、創価学会の双方に下した和解勧告である

「当裁判所(東京高等裁判所)は、次の理由により、控訴人(日蓮正宗、大石寺)らが本件各訴えを取り下げ、被控訴人(池田大作、創価学会)らがいずれもこれに同意して、本件訴訟を終了させることを強く勧告する」

「本件訴訟の係属そのものが、控訴人(日蓮正宗、大石寺)ら及び被控訴人(池田大作、創価学会)らにおいて、それぞれの教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成して、その維持、発展を図っていく上で、相応しくなく、むしろその妨げとなるおそれがあること。」

(2002131日の日蓮正宗・創価学会の和解)

の中に、日蓮正宗、創価学会の教義、本尊、信仰の内容の問題は含まれていない。

したがって、日蓮正宗と創価学会は2002131日の和解の中に、日蓮正宗、創価学会の本尊、教義、信仰の内容の問題は含まれていないのである。

かつて1977(昭和52)420日、日蓮正宗と妙信講の和解の中で

「一、紛争の核心が宗教上の教義解釈の相違にもとづくものであって、裁判所の判断により最終的に解決されるべき問題ではなく、むしろ今後それぞれの宗教活動の成果によって当否を決せらるべき事柄であることを相互に確認する」

と締結している。この文は、日蓮正宗と妙信講(顕正会)の紛争の核心は、教義解釈の相違であるから、これについては今後も両者は、教義論争を続行していく、という意味で、つまりこれは、日蓮正宗と顕正会(妙信講)は教義問題以外は「和解」したということである

つまり、2002131日の日蓮正宗・創価学会の和解も、1977(昭和52)420日の日蓮正宗と妙信講(顕正会)の和解と、全く同種・同列のものである。

 

今後裁判をしない・宗教活動無制約
 

(1977(昭和52)420日、日蓮正宗と妙信講の和解)