□日蓮正宗・創価学会の本尊セールス・登山会セールス論争は教義論争の範疇には入らない
「日蓮正宗と創価学会は2002年1月31日、本尊・教義以外の問題は「和解」している」「日蓮正宗・創価学会の和解の中に本尊・教義問題は含まれていない」などというと、いかにも聞こえよく聞こえてしまいがちだが、実態はそんなものではない。今の日蓮正宗・創価学会「教義論争」なるものは、とても「教義論争」と言えたものではなく、ただの本尊セールス・葬式セールス・登山会セールスである。
1990(平成2)年12月の宗創戦争以来、日蓮正宗は「反創価学会」を看板に掲げて、いかにも創価学会批判の本家であるかのような顔をしているが、これは偽りの看板である。
日蓮正宗は、創価学会批判の本筋が、あたかも創価学会が1993(平成5)年に作成した「日寛新本尊」(日蓮正宗が言うニセ本尊)批判であるかのように偽っているが、これは全くの欺瞞であり、正常な創価学会批判を都合良く歪曲させる大罪を犯している。そもそも日蓮正宗の創価学会「日寛新本尊」批判など、創価学会批判の範疇にすら入らない。
法華講員は、日本の仏教界で、曼荼羅書写をしているのは大石寺法主だけだと本気で思っているのだろうか。法華講員の論点は「日寛上人の御本尊といえども、御法主猊下の御開眼なき曼荼羅は本尊ではないから、ニセ本尊だ」という一点張り。つまり大石寺法主の開眼がないからニセ本尊だという、ワンパターン論理。まさにドリフターズのコント顔負けのワンパターンである。
日本の仏教界の仏像や曼荼羅本尊は、開眼していることは事実であるが、大石寺法主が開眼しない曼荼羅はニセ本尊だと言っているのは日蓮正宗だけ。こんな独善的教義を吹聴していると、世間の物笑いの種になるだけであろう。
日蓮図顕の曼荼羅書写は、何も大石寺法主のみが行っているのではなく、日蓮宗、富士門流、法華宗本山貫首も行っている。それぞれの貫首が書写・開眼して、曼荼羅本尊として祀られる。
ニセ本尊であるかないかの判断基準は、大石寺法主が書写したのかどうか、大石寺法主が開眼したのかどうかではない。大石寺法主以外の人物が書写・開眼した曼荼羅を「ニセ本尊」とは言わないのである。こんな笑止千万な教義を鵜呑みにしてカルト信者こそ、哀れの極みであろう。
そもそも法華講員は、創価学会員宅に行って「創価学会が下附している日寛上人の御本尊集はニセ本尊ですよ」と言って、その先はどうするのか。詰まるところ、創価学会員を創価学会から日蓮正宗の法華講にカルトサーフィンさせて、「日寛新本尊」を創価学会本部か日蓮正宗寺院に返納させ、大石寺現法主の曼荼羅を下附して供養金を取り、創価学会と全く同じ体質の法華講の中に組み入れているだけではないか。こんなものは創価学会批判でもなければ、カルト問題の解決に何ら役に立っていない。同じ穴の狢同士でカルトサーフィンしただけのことである。
世間で言えば、A社の光プランよりもB社の光プランがいいから、A社からB社に乗り換えてくれ、とセールスするのに等しい。つまり創価学会の曼荼羅本尊ではダメだから、日蓮正宗の曼荼羅本尊にしてくれ。これには創価学会を脱会して法華講に入らないとできませんよ、という主旨。これでは創価学会批判でも何でもない、ただの大石寺曼荼羅本尊セールスである。
これで法華講員たちは、創価学会批判をやっているつもりなのだから、驚き、呆れ果ててしまう。
(創価学会が1993(平成5)年に作成した「日寛新本尊」(日蓮正宗が言うニセ本尊)
(法華講員たちがセールスしている大石寺68世日如の曼荼羅本尊)
□創価学会と同じ穴の狢・同根・同罪の日蓮正宗に的確な創価学会批判ができるわけがない
葬儀や塔婆、登山会等についても同じ。「創価学会の学会葬・友人葬は僧侶不在でだめだから日蓮正宗で葬儀をやれ」というのは、ただの葬儀セールスである。「創価学会に居たのでは大石寺に登山できない。大石寺の『戒壇の大本尊』に参拝しなければダメ」というのは、ただの大石寺登山会セールスである。「塔婆不要の創価学会では追善供養ができない。日蓮正宗寺院に来て塔婆供養をやれ」というのは、ただの塔婆セールスである。こんなものは創価学会批判の範疇には入らない。完全な「圏外」である。(爆笑)
そもそも日蓮正宗や法華講の者に、的確な創価学会批判ができるわけがない。それはなぜか。
日蓮正宗も創価学会も全く同じ穴の狢であり、同罪。根は全く同じだからである。「アンチ日蓮正宗」では、創価学会の強引・執拗・人権侵害の折伏、強引な金集め・供養金集め、信者の非常識な振る舞い、脅迫的堕地獄論・仏罰論等を徹底批判しているが、これは全て日蓮正宗にもそっくり当てはまるものである。
1990年12月の宗創戦争以前まで、日蓮正宗は創価学会と約60年間、和合路線であった。創価学会の諸悪・根源悪はすでに創立当時からあるもので、「折伏大進撃」等、強引・執拗な折伏で、日蓮正宗も信者を拡大し、経済力をつけて伽藍・堂宇・末寺を大幅に増やすという恩恵を被った。したがって、日蓮正宗は創価学会の「諸悪」「根源悪」を批判する気は全くない。そんなことをしたら、創価学会批判の火の粉が日蓮正宗にも降りかかってくると考えている。
日蓮正宗は、自分たちに都合の良い「創価学会批判」を行って、創価学会信者が日蓮正宗に移ってくればいいと考えているだけ。日蓮正宗に都合の良い「創価学会批判」とは、創価学会が破門以降、会員に配布している「日寛新本尊」を取り替える本尊セールス。大石寺の「戒壇の大本尊」が信仰の根本だから、創価学会をやめて日蓮正宗に入り、大石寺に参詣せよ、という大石寺登山会セールス。近年はこれしか言っていない。
だから日蓮正宗の者が、創価学会の根源悪である強引・執拗・人権侵害の折伏、強引な金集め・供養金集め、信者の非常識な振る舞い、脅迫的堕地獄論・仏罰論等を批判できるはずがない。
日蓮正宗が、かつて創価学会解散勧告書等の中で、宗創和合時代の創価学会・創価学会員の不祥事について指摘したことがあったが、ではなぜ、その不祥事が起きたときに日蓮正宗は創価学会に対して、適切な指導をしなかったのか。「創価学会員は日蓮正宗信徒だったのだ」と、宗門が胸を張りたいのなら、信徒が不祥事を起こした時点で的確な指導をしなければならないはず。
しかしそんな指導は何もしていないばかりか、1970年の創価学会・言論問題の時には、大石寺66世細井日達法主が、言論弾圧の張本人・池田大作を絶賛していた。
それで1990年12月に宗創戦争がはじまった途端、手のひらを返したように創価学会・創価学会員の不祥事批判をはじめたわけだったが、所詮はここまで。これ以上、宗門が創価学会・創価学会員の不祥事批判をすれば、創価学会批判の火の粉が自分たちにも降りかかってくるとばかりに、さっさと引っ込めてしまった。そしてかわりに出してきたのが、創価学会「日寛本尊」批判。そして「大石寺に登山しなければ成仏できない。創価学会に居たのでは大石寺に登山できない。大石寺の『戒壇の大本尊』に参拝しなければダメ」という、これまたワンパターンの大石寺登山会セールス。これとて、教学的に言えば、「大石寺法主の開眼がない曼荼羅はニセ本尊」などという独善的教義は愚の骨頂。所詮は「コップの中の争い」であり、大石寺の曼荼羅本尊セールスに過ぎない。
又、大石寺の「戒壇の大本尊」は大石寺9世日有の偽作であり、日蓮とは無関係の曼荼羅である。これらの日蓮正宗の所業は、過去の創価学会与同の罪を隠蔽し、的確な創価学会批判を歪曲させ、結果的に創価学会を利する行為である。このような日蓮正宗の所業は、強く指弾されるべきである。
(法華講員たちの登山会)
(かつて宗創和合時代に行われていた創価学会の団体登山会)
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