□伝統的に外部に主敵を造って内部組織統制を固めてきた日蓮正宗、創価学会のファッショ体質

 

では日蓮正宗と創価学会は2002131日に「和解」しておきながら、その一方で、表向きは「教義論争」---実態は本尊セールス、大石寺登山会セールス、葬儀セールス、塔婆セールス、聖教新聞セールス、創価学会復帰セールスだが---を、続行しているのか。

それはまず第一に、日蓮正宗も創価学会も、外に主敵を作ることによって法主専制・会長独裁ファッショの内部組織統制を固めるという体質を持っているということである。これは日蓮正宗、創価学会の歴史を具に検証していけば、わかることである。まさに中世のころから、大石寺門流(日蓮正宗)は、まさに外に主敵を造ることによって内部統制を固めてきた歴史そのものである。

日蓮の六老僧第三位・日興が、身延山を離山して大石寺を創建し日興門流の開祖となったが、日興入滅後は、仙代問答、道郷紛争、北山・西山紛争等、分裂に次ぐ分裂の歴史だった。ところが大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」、日蓮本仏義、「唯授一人血脈相承」を偽作してから、様相が変わってきた。大石寺法主を、日蓮、日興以来の「唯授一人の血脈」を相承する「今日蓮」と位置付け、「戒壇の大本尊」在所の大石寺を、比叡山延暦寺の迹門戒壇を凌ぐ本門「事の戒壇」と定義付けたこと。これら大石寺9世日有の偽作により、北山本門寺、小泉久遠寺と血脈問答が起こり、北山本門寺貫首・日浄は、大石寺9世日有の「戒壇の大本尊」偽作、「日興跡条条事」偽作を非難した。これにより大石寺門流は、富士門流(日興門流)の中で、孤立化したが、皮肉なことに、これによってかえって大石寺門流内部の統制が引き締まり、分裂劇が消滅したのである。

こういった外に主敵を造り上げて内部統制を固めるというコントロール法は、大石寺9世日有以来の大石寺門流の伝統になった。大石寺門流は、布教が実質的に禁じられていた江戸時代でも、金沢、仙台、伊那、尾張等で折伏布教を展開。幕府から弾圧を受けたことで、大石寺門流の内部統制は固まっていく。その後、明治、大正、昭和にかけての布教活動の中で、三鳥派、堅樹派等の分派(---日蓮正宗が言う異流義----)の発生や大石寺58世土屋日柱法主追放クーデター事件はあったが、大石寺門流(日蓮正宗)の分裂劇はなかった。

1930(昭和5)年の創価学会出現、戦後の「折伏大進撃」と呼ばれる過激・強引な折伏布教活動の中で、日蓮正宗、創価学会は、他宗、他仏教宗派、新宗教団体を「邪宗・邪教」よばわりして、日蓮正宗、創価学会の主敵とした。又、折伏大進撃の時代から、創価学会はマスコミ、評論家、週刊誌等から批判されてきており、創価学会の主敵には、マスコミ、週刊誌、評論家も入っていた。

この「折伏大進撃」によって、正本堂建立落慶直後の1975(昭和50)年当時、大石寺66世細井日達法主の言によれば、創価学会員を含めた日蓮正宗信徒の総数は1600万人になったという。

 

1975.7.5元妙信講について2次に譲る・遺命の戒壇
 

(1975(昭和50)年・法華講青年部目通りの時の大石寺66世細井日達法主の指南)

 

日達全集2輯4巻
 

(大石寺66世細井日達法主)

 

 

 

 

 

□外部に主敵を造って最高権力者の絶対権力体制を固めてきた日蓮正宗、創価学会の危険体質

 

ところが1970年代に入ってから、日蓮正宗、創価学会の「主敵」に変化が見え始める。1970年代に入って、日蓮正宗、創価学会と妙信講(後の顕正会)の間で、「正本堂の意義付け論争」「国立戒壇論争」が勃発。創価学会幹部だった松本勝弥氏が正本堂御供養金返還訴訟を提起して日蓮正宗、創価学会と対立した。妙信講は日蓮正宗から破門され、松本勝弥氏は日蓮正宗、創価学会から除名された。かくして、日蓮正宗、創価学会の「主敵」の中に、妙信講(顕正会)、松本勝弥氏が加わる。又、1970年の創価学会の言論出版妨害事件で、創価学会は評論家・藤原弘達氏、内藤国夫氏、日本共産党からボロクソに批判され、創価学会の主敵には、藤原弘達氏、内藤国夫氏、日本共産党が加わる。

19741980年には、「昭和五十二年路線」と言われる創価学会の教義逸脱問題、それにつづいて正信会問題が起こり、正信会僧侶・信徒は日蓮正宗から破門される。これにより、日蓮正宗、創価学会の「主敵」に正信会が加わることになった。又、この時期、創価学会元顧問弁護士・山崎正友氏、創価学会元教学部長・原島嵩氏が、池田大作に造反して池田大作批判、創価学会批判を展開。創価学会の主敵に、山崎正友氏、原島嵩氏が加わる。

そして199012月の池田大作総講頭罷免事件で、日蓮正宗、創価学会が全面戦争に突入。この「宗創戦争」によって199111月の創価学会破門。19928月の池田大作信徒除名。1997年の創価学会員信徒資格喪失まで行き着く。これにより日蓮正宗の「主敵」に創価学会が加わり、創価学会の「主敵」に日蓮正宗が加わる。1990年代以降は、元創価学会・公明党幹部だった福島源次郎氏、龍年光氏、竹入義勝氏、 矢野絢也氏らが創価学会批判活動を展開。創価学会の主敵に、福島源次郎氏、龍年光氏、竹入義勝氏、 矢野絢也氏らが加わる。

この間、何が起こったのかというと、日蓮正宗では大石寺法主(日蓮正宗管長・代表役員)に次第に権力が集中していき、今や大石寺法主は日蓮正宗の絶対専政君主になり、宗内の選挙で選出される宗会も監正会もほとんど形骸化した。大石寺法主が日蓮正宗管長、日蓮正宗代表役員を兼任する体制は、日蓮正宗が宗教法人を設立した当初からのものだが、明治、大正、昭和初期のころは、次期管長選出に関して選挙が行われたことが何度かあった。又、宗務行政を司る宗務総監、宗務院役員は、明治、大正、昭和前期のころは、宗会で選出され、日蓮正宗管長が認証する体制だった。ところが今や宗制宗規から、管長候補者選挙に関する規定は完全に削除され、大石寺法主(日蓮正宗管長)選定に関しては、完全に前法主と次期法主しか関与できなくなった。大石寺66世日達が急死したときですら、次期法主(管長)選定に関して、選挙は行われなかった。

大石寺66世日達法主の代に、宗務総監も宗務院各部部長も、日蓮正宗管長(大石寺法主)の任命制になり、宗内教師僧侶の選挙で選出される、日蓮正宗の立法機関である宗会は、宗務院人事に全く関与できなくなった。かくして今や大石寺法主(日蓮正宗管長)は、完全な封建専政絶対君主である。

創価学会の場合は、195060年代前半のころは、まだ会長独裁制ではなかった。池田大作が会長に就任した初期の頃、池田大作自身がまだ若干32才。この当時は、牧口常三郎初代会長、トだ二代会長の門弟が、創価学会大幹部の中に大勢いて、池田大作もこれらの幹部に頭が上がらなかった。ところが池田大作は、1962年の大石寺大坊落慶供養の時に大石寺66世細井日達法主から法華講大講頭に任命され、さらに1964年の大石寺大客殿落慶供養の時に、法華講総講頭に任命された。法華講総講頭とは、日蓮正宗信徒のナンバーワンである。そして創価学会が外部から批判されればされるほど会長に権限が集中していき、1960年代後半のころには、創価学会は池田大作の完全な独裁体制となった。池田大作は、昭和五十二年路線の混乱収束のために、19795月に法華講総講頭、創価学会会長を辞任し、名誉総講頭、創価学会名誉会長に退いた。ところが山崎正友氏、原島嵩氏やマスコミからの池田大作批判、創価学会批判が盛り上がるのと反比例するかのように、再び池田大作に権限・権力が集中。19841月、大石寺67世阿部日顕法主は、池田大作を再び法華講総講頭に任命。創価学会の会長でも代表役員でもない、名誉会長である池田大作が、創価学会のトップに君臨し、会長時代の権力を上回る絶大な独裁権力を握った。池田大作は、199012月に法華講総講頭を罷免され、19928月に日蓮正宗から信徒除名されてしまうが、日蓮正宗・創価学会の「宗創戦争」の中で、池田大作への権力集中はどんどん進行していき、20023月、池田大作は、初代会長・牧口常三郎、二代会長・戸田城聖と並ぶ「永遠の指導者」として創価学会会則に規定されるに至る。

このように、日蓮正宗も創価学会も、外部に「主敵」を造り、「主敵」からの批判・抗争が強まる中で、内部組織の統制を強め、最高指導者の権力を強化しつづけて、法主専政、池田大作独裁、会長独裁体制を固めてきた歴史がある。つまり日蓮正宗にとっても、創価学会にとっても、内部組織統制、最高指導者の権力強化のためには、「主敵」が必要なのであり、しかるが故に、日蓮正宗、創価学会は、2002131日に和解しているにもかかわらず、日蓮正宗、創価学会の「抗争」がつづいているかのように、さも「教義論争」を行っているかのように「偽装」して-----ただの本尊セールス、登山会セールス、創価学会復帰セールスをあたかも教義論争の如くに偽装している-----日蓮正宗、創価学会の信者を欺瞞しているのである。

 

 

日達・総講頭1
 

(196442日の大石寺66世日達による池田大作・法華講総講頭任命を報じる聖教新聞)

 

池田大作4(東京地裁前)
 

(池田大作)

 

 

山崎正友11(1980年代)
 

(池田大作に造反して池田大作批判を展開した山崎正友氏)

 

原島嵩1
 

(池田大作に造反して池田大作批判を展開した原島嵩氏)