□宗創和合時代は日蓮正宗信徒・創価学会員を間接支配しかできなかった日蓮正宗寺院住職

 

日蓮正宗と創価学会は2002131日に「和解」しておきながら、その一方で、表向きは「教義論争」---実態は本尊セールス、大石寺登山会セールス、葬儀セールス、塔婆セールス、聖教新聞セールス、創価学会復帰セールスだが---を、続行しているのか。

その第二の理由は、------これは主に日蓮正宗側の理由だが------日蓮正宗は19741979年の第1次宗創紛争、199012月以降の第2次宗創紛争、日蓮正宗・創価学会の全面戦争「宗創戦争」によって、「信徒直接支配」のうま味を覚えたからである。これはどういうことか。

日蓮正宗、創価学会の「宗創和合時代」は、確かに創価学会員は日蓮正宗の信徒で、創価学会員個人は、全て地元の日蓮正宗寺院に所属していたが、日々の信仰活動の主体は、座談会や創価学会の大がかりな大会、文化祭といった創価学会活動であり、それらの活動は創価学会員個人宅や個人会館、創価学会の会館、講堂で行われ、そういったところに創価学会員は足繁く通っていたが、日蓮正宗寺院参詣は皆無。創価学会員が日蓮正宗寺院に参詣したのは、授戒、本尊下附の時、葬儀・法事の時ぐらいで、御講、御会式、盂蘭盆、彼岸会の参詣はほとんど皆無。とはいっても創価学会員の僅か数%の会員が、日蓮正宗寺院に参詣しただけで、寺院本堂は超満員になった。こんなのはまだマシな方である。195060年代の「折伏大進撃」の時代、創価学会員の増加により、日蓮正宗の信徒数は増加し、日蓮正宗寺院の数は増えたものの、日蓮正宗寺院に参詣する信徒は全く増えなかった。御講でも御会式でも、創価学会員は誰も日蓮正宗寺院に参詣せず、日蓮正宗寺院住職は、誰もいない本堂で説法するという「センズリ御講」「自慰説法」状態。寺院所属信徒はたくさんいたが、供養金はほとんど上がってきていなかった。

「そんなことはない。宗創和合時代には、創価学会員の大石寺団体登山会は行われていた」と言う者がいる。確かにその時代、創価学会「団体登山会」が行われていたが、創価学会員が奉安殿(1955-72)、正本堂(1972-1991)で「戒壇の大本尊」の内拝を受けても、大石寺法主が大導師の「御開扉」と呼ばれる法要に出席するだけ。一泊登山者は、大石寺法主の「丑寅勤行」に参詣しても、大客殿の勤行に参詣するだけ。「御開扉供養」のカネは創価学会を通じて大石寺法主の懐に入っていくだけ。大石寺法主と創価学会員個人が面会・接触していたわけではない。大石寺大坊で、大石寺法主(日蓮正宗管長)と直接面会できたのは、池田大作以下会長、理事長、副会長の最高幹部だけ。団体登山会では大石寺塔中宿坊で、座談会や指導会が行われていたが、日蓮正宗僧侶との接触は皆無。もちろん日蓮正宗寺院住職が、個々の創価学会員の日常の生活指導、信仰生活指導をすることなど皆無。というより、この時代には、創価学会が日蓮正宗に対して「創価学会員の生活指導、信仰指導は、創価学会幹部がやるので、日蓮正宗寺院住職は口出ししないでほしい」と、日蓮正宗寺院住職と創価学会員個人の接触を制止していたのである。

さらに、「創価学会員は日蓮正宗の信徒」などと言いながら、この時代でも、日蓮正宗寺院は、所属の創価学会員の名簿すら持っていなかった。創価学会員の名簿は、創価学会が掌握しており、創価学会は、創価学会員の名簿を日蓮正宗には全く提出していなかった。つまり、「宗創和合時代」は、日蓮正宗寺院住職・僧侶は、巨大信徒団体・創価学会を通じてのみ、創価学会員と間接的に接触するのみで、信徒の直接支配が不可能な状態だったのである。

 

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1985大石寺0k2


池田大作御開扉1
 

(宗創和合時代に行われていた創価学会の団体登山会)

 

 

□日蓮正宗・創価学会の第1次宗創紛争により信徒直接支配欲に目覚めた日蓮正宗寺院住職

 

又、創価学会は195074年のころは、創価学会員を積極的に大石寺に登山させ、1964年の大客殿落慶の時は300万総登山、1972年の正本堂落慶の時は1000万総登山を行っていた。当時、日蓮正宗は信徒数を1600万人と自称していたので、1600万人のうち1000万人が大石寺登山したとすれば、全信徒の62.5%が登山したことになる。公明党の得票数750万をそのまま信徒数に換算すれば、1人当たり1.33回、大石寺登山したことになる。

ところが1974年以降、第1次宗創紛争が起きると、途端に創価学会は、大石寺団体登山会の人数を減少させる。毎日のように創価学会員の登山者で賑わっていた大石寺境内は、一転して閑古鳥が鳴くようになる。197953日の日蓮正宗・創価学会の和解で、創価学会は大石寺登山者数を回復させたものの、1981年の日蓮七百遠忌慶讃登山では、創価学会員の登山者は200万人。回復させたと言っても、9年前の正本堂落慶総登山の五分の一。17年前の大客殿落慶総登山よりも100万人も少ない。1973年は正本堂で一日58回も「御開扉」が行われていたのに、1980年代には、正本堂の「御開扉」は、一日12回にまで減少していた。日蓮正宗からすれば、大石寺登山にしても、創価学会員の末寺参詣にしても、いちいち創価学会の顔色を窺わねばならなかったのである。これが第1次宗創紛争により、風向きが変わるのである。

1974年~1980年の創価学会「昭和五十二年路線」と言われる教義問題で、第1次宗創紛争が起こり、創価学会の指導性に疑問を持った創価学会員が大量脱会して、日蓮正宗寺院直属の信徒になった。これにより日蓮正宗僧侶が「信徒直接支配」の欲望に目覚めたのである。

日蓮正宗寺院の御講、御会式、盂蘭盆会、彼岸会等で、住職が創価学会批判の説法をすればするほど、創価学会を脱会して日蓮正宗寺院直属の信徒----197080年代のころは、こうした信徒のことを「檀徒」と呼んでいた-----が増加していった。日蓮正宗寺院直属の信徒(檀徒)であれば、創価学会も幹部も信徒団体も関係ない。日蓮正宗寺院住職が直接、檀徒の生活指導、信仰指導ができるし、寺院所属檀徒の登山会も住職主宰で行うことが出来る。日蓮正宗寺院に檀徒名簿を造って、住職が直接、檀徒を掌握できるし、檀徒は、毎月の御講をはじめ、御会式、盂蘭盆会、彼岸会、日蓮誕生会、立宗会、御難会等の寺院行事によく参詣するし、本堂は参詣信徒で満員になる。参詣信徒からの供養金もがっぽり住職の懐に入ってくる。

かくして、日蓮正宗寺院住職からすれば、創価学会を脱会して日蓮正宗寺院直属の信徒(檀徒)が生まれたことによって、ようやく日蓮正宗の信徒を直接支配できるようになった。つまり日蓮正宗僧侶、末寺寺院住職たちが、信徒直接支配欲に目覚めたのである。

 

支部登山1OK


支部登山4OK
 

 

(法華講支部登山会)