■一般社団法人仏教宗学研究会・日蓮正宗寺院・現地視察学習会24

 

□本堂や開山堂に多額のお賽銭が投げ入れられるほど多くの人が参詣する讃岐本門寺御会式

 

20161122-23日に仏教宗学研究会で行った讃岐本門寺・現地視察学習会の時の見聞記になります。仏教宗学研究会・現地視察学習会のレポートは、一般社団法人設立以前の公式行事、設立以降の公式行事も含めて、通常は「一般社団法人仏教宗学研究会・公式ブログ」にアップするのでありますが、讃岐本門寺は、富士門流本山であると同時に、日蓮正宗本山寺院でありますので、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」にアップいたします。

「アンチ日蓮正宗」管理人が、讃岐本門寺に行ったのは、瀬戸大橋開通の1988(昭和63)年以来、28年ぶりのこと。前回の訪問旅は、東京発高松行きの寝台特急・瀬戸号に乗っての旅。帰りも、寝台特急・瀬戸号でした。今回は、羽田空港発・高松空港行きの航空機旅。帰りも航空機で羽田まで帰りました。高松市内のホテルで宿泊。

翌日、高松市内のレンタカー店で、レンタカーを借りて讃岐本門寺へ。前回の1988年の訪問は、JR高松駅から電車で行き、JR予讃線のJR高瀬大坊駅という無人駅で下車。今、この駅はJRみの駅という名前に改称されています。

 

讃岐2


みの駅2


みの駅7
 

(JR予讃線・旧高瀬大坊駅・みの駅)

讃岐本門寺の御会式は、毎年1122日御逮夜、23日御正当と決まっている。これは、総本山大石寺の御大会が毎年1120日御逮夜、21日御正当と決まっていることを受け、この大石寺御大会につづいて、讃岐本門寺の御会式が行われている、というもの。

 

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(讃岐本門寺・三門・御会式)

 

そして、この讃岐本門寺の御会式の期間中、「大坊市」と呼ばれている賑々しいテキ屋の出店が建ち並ぶ。今回の現地視察学習会の目的のひとつが、この「大坊市」で、「讃岐本門寺の境内の周辺に出店が並んでいるのかな」と思っていたところ、何と讃岐本門寺の境内の中に出店が並んでいました。ただし全ての出店が境内地内にあるわけではなく、境内の外側にも、たくさんの出店が並んでいました。テキ屋の出店で売られているものは、関東をはじめ全国各地の祭礼におけるテキ屋の出店で売られているものと、ほとんど大差がないように思う。昼間から、かなり大勢の人で境内は賑わっていました。

 

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(大坊市)

 

讃岐本門寺の境内は、東方から本堂(御影堂)、客殿、大坊と並んでいて、これは大石寺、富士妙蓮寺、小泉久遠寺、北山本門寺、伊豆実成寺と共通している。西山本門寺は、現在は本堂がなく、客殿が本堂を兼ねているが、かつて本堂があった場所を勘案すれば、西山本門寺とも共通する。

今回は、本堂の板本尊を写真撮影することができたのですが、板本尊の前に日蓮御影像が置かれていて、板本尊がよく見えませんでした。板本尊の前に日蓮像を置くのは大石寺御影堂や日蓮宗寺院でもよく見かけます。----身延山久遠寺祖師堂や池上本門寺大堂など-------

本堂の中の造りも、大石寺御影堂、北山本門寺御影堂などと実によく似た造りになっている。

 

讃岐16本堂2


讃岐16本堂1
 

(讃岐本門寺本堂)

 

讃岐境内図2
 

(讃岐本門寺の境内図)

 

 

 

 

□十年以上副住職だった三好智浄氏墓所を歴代住職墓地に入れさせない冷たい宗派・日蓮正宗

 

面白いのは、開山堂(日仙堂)内の畳にお賽銭が投げ入れられていました。日蓮正宗の寺院で、お賽銭が投げ入れられているのは、珍しい光景です。本堂の経机にも、お賽銭が置かれていました。大坊市で、あれだけ多くの人が讃岐本門寺に来ているわけですから、この人たちは、讃岐本門寺の檀家・信徒だけではなく、無宗教の人や他宗の人がたくさん参詣しているのではないかと思います。ここは1946(昭和21)年に日蓮正宗に合同した寺院なので、ここに参詣する人は、日蓮正宗信徒だけではないように思います。

前回、訪問した1988(昭和63)年は、日蓮正宗と創価学会が和合路線だった宗創和合時代でしたが、境内は、がらんとしていて、ほとんど参詣人はいない状態。あの当時、東京や大阪の日蓮正宗寺院では、本堂に大勢の創価学会員が参詣して、一心不乱に長時間の唱題をする姿が見られましたが、ここではそんな信徒はゼロ。もっともその日は、何の行事もない日ではありましたが、讃岐本門寺の場合、古くからの数多くの檀家や他宗の参詣があるわけだから、創価学会破門による経済的影響は、あまりなかったのではないかと思われる。

さてここは1980年代のころ、大石寺66世日達、大石寺67世日顕が讃岐本門寺住職を兼任していた時代があった。その期間は、讃岐本門寺36代・貞広日文貫首が死去した1976(昭和51)911日から1980年代半ばに39代住職・稲尾慈正氏が晋山するまで。10年以上つづいた。

その間、大石寺66世日達も大石寺67世日顕も、一年に一度、御会式の時に讃岐本門寺に来ただけ。御会式を終えて、さぬきうどんを食べて、さっさと大石寺に帰ってしまっていた。

そういう中で、日達、日顕が讃岐本門寺を留守にしていた間、讃岐本門寺を仕切っていたのは、副住職・三好智浄氏。三好智浄氏が副住職を勤めていた期間は、36代・貞広日文貫首の晩年の1973(昭和48)9月から三好智浄氏が死去した1985(昭和60)1までの12年間。

こんな長い間、三好智浄氏は「副住職」のままで、ついに住職になれないまま、1985(昭和60)1月に死去した。なぜこんなことになったのかというと、この当時の日蓮正宗宗規では、日蓮正宗本山(下条妙蓮寺・讃岐本門寺・日向定善寺と離脱前の保田妙本寺)住職は、能化以上に限定されていたからである。三好智浄氏死去後、日蓮正宗は宗規を改正し、日蓮正宗本山(下条妙蓮寺・讃岐本門寺・日向定善寺と離脱前の保田妙本寺)住職の僧階を大僧都以上とし、能化でなくても住職になれるように改正。これにより大石寺67世日顕が讃岐本門寺住職を退任。第39代住職に稲尾慈正氏が晋山した。稲尾慈正氏は死去後、「日淳贈上人」と能化を追贈されている。

 

讃岐31稲尾慈正(日淳)墓1
 

(稲尾慈正氏の墓所)

 

さて一方の副住職のまま死去した三好智浄氏だが、三好智浄氏の墓が、歴代住職の墓所から外れ、片隅にポツンと建てられていました。つまりこれは三好智浄氏は、住職ではなく、「副住職」のまま死去したため、三好智浄氏の墓は、歴代住職墓地に入れなかったらしい。お気の毒な人ですね。十年以上も讃岐本門寺副住職として、日達、日顕が讃岐本門寺を留守にしていた間、実質的な住職として、讃岐本門寺を統治していたわけだから、「せめて墓ぐらい歴代住職墓地に建ててあげればいいのに」と、思いますけどね。日蓮宗や京都要法寺だったら、没後、住職に「加歴」するんじゃないかと思いますが。ずいぶん、日蓮正宗という宗派は「冷たい」宗派なんだな、と思いました。()

讃岐31三好智浄墓1
 

(三好智浄氏の墓所)

 

讃岐31歴代墓地1
 

(歴代住職墓地)