■一般社団法人仏教宗学研究会・日蓮正宗寺院・現地視察学習会24-2

 

□今や完全に大石寺の一末寺と化して名前だけの日蓮正宗本山となってしまっている讃岐本門寺

 

讃岐本門寺は、正式名を「高栄山本門寺」といい、寺格は「日蓮正宗本山」である。日蓮正宗の末寺は、通例は「日蓮正宗△△山○○寺」と呼ぶが、讃岐本門寺は、「日蓮正宗本山高栄山本門寺」とか「日蓮正宗本山讃岐本門寺」と呼び、日蓮正宗と山号寺号の間に「本山」号を付けることが許されている。日蓮正宗の現末寺の中で、本山号が許されているのは、讃岐本門寺と九州宮崎県日向市・日知屋山定善寺(日向定善寺とも呼称)、静岡県富士宮市・大石寺近郊にある多宝富士山妙蓮寺(富士妙蓮寺・下条妙蓮寺とも呼称する)の三ヶ寺だけ。

 

讃岐2
 

(日蓮正宗本山本門寺)

かつて富士門流八本山のひとつ・保田妙本寺が1957年から1995年までの38年間、日蓮正宗に合同していた時代があり、この時代、保田妙本寺は「日蓮正宗本山妙本寺」と名乗っていた。----日蓮正宗から離脱した後は、「大本山妙本寺」と名乗っている------

 

保田妙本寺三門1(日蓮正宗時代)
 

(日蓮正宗時代の保田妙本寺・日蓮正宗本山妙本寺と名乗っていた)

「本山」を名乗る寺院は、塔中、末寺を持っており、讃岐本門寺も塔中・末寺がある。-----東京・向島の常泉寺も、かつて塔中・末寺を持つ本山格の寺院であったが、常泉寺は「本山」を名乗ることは許されていない。ただし常泉寺は、31等級に分けられている日蓮正宗末寺の中で、最上位の「1等」寺院である。-------讃岐本門寺の塔中は、境内地内にある「内塔中」の法善坊、泉要坊、奥之坊、西之坊。境内の外にある「外塔中」の中之坊、西山坊、宝光坊、上之坊の八ヶ坊。そして妙行寺、福成寺が讃岐本門寺の末寺だった。これら塔中・末寺10ヶ寺を統括する本山・讃岐本門寺住職は「貫主上人」とか「貫首上人」と呼ばれ、檀家は「大坊さん」と呼んでいた。そして讃岐本門寺の貫主、塔中・末寺住職の人事は、全て讃岐本門寺で決めていた。

 

讃岐18大坊1
 

(讃岐本門寺大坊)

1946(昭和21)年に讃岐本門寺と塔中・末寺10ヶ寺が日蓮正宗に合同した当初のころは、讃岐本門寺の貫主、塔中・末寺住職の人事は、まだ讃岐本門寺で決めていた。しかし次第に人事権は、大石寺に奪われていき、内塔中も外塔中も妙行寺、福成寺も、完全に人事権は大石寺が握り、今や大石寺の末寺と化している。讃岐本門寺と塔中・末寺の人事を完全に大石寺が握る大きな機縁になったのは、大石寺66世日達、大石寺67世日顕による讃岐本門寺住職兼任である。

今、讃岐本門寺の住職は「貫主」「貫首」「上人」とは呼ばず、「住職」である。したがって実態としては、讃岐本門寺も塔中・末寺も完全に大石寺の末寺である。

ただし、内塔中の泉要坊は大石寺直系僧侶・横田雄仁氏が住職を勤めているが、西之住職・村山泰道氏、奥之坊住職・松本珠道氏は、日蓮正宗正信会の僧侶であり、大石寺の支配が及んでいない。法善坊は現在、住職無住である。外塔中の中之坊住職は石田説道氏、西山坊住職は白井照研氏と大石寺直系僧侶が住職であるが、宝光坊、上之坊は住職無住である。

 

讃岐境内図2
 

(讃岐本門寺境内図)

 

 

 

 

 

□「大石寺系の御会式は絶対参加しない」とばかりに閉門していた正信会僧侶が居住する西之坊

 

日蓮正宗VS正信会の抗争で、正信会に所属する日蓮正宗寺院住職が破門になってから35年以上が経過しているが、今もそれらの僧侶は、住職として寺院に居座り続けている。日蓮正宗はこれを「正信会が不法占拠している」と言っているが、実際は裁判所の仮処分決定により、正信会僧侶が存命中は、住職としてその寺院に居住することが認められている。したがって、その僧侶が死去したり、自分で返還を申し出れば、その寺院は日蓮正宗に返還されるという図式になっている。

西之住職・村山泰道氏、奥之坊住職・松本珠道氏が死去するか、生前に自ら返還を申し出れば、西之坊も奥之坊も、日蓮正宗に返還されることになると思われるが、今は正信会寺院のまま。

つまり讃岐本門寺の内塔中は、大石寺直系僧侶と正信会僧侶が「呉越同舟」していることになる。こんな状態で、讃岐本門寺の法要、行事、御会式の時は、どうしているのか。私としては、ちょっと関心があった。もちろん讃岐本門寺の法要は、讃岐本門寺が主宰するわけであり、讃岐本門寺住職は大石寺直系僧侶(大石寺66世日達大石寺67世日顕稲尾慈正氏横田智研氏梶原慈文氏)だから、讃岐本門寺の法要に正信会僧侶が出仕しようとしても、「あなたは出仕できない」と、正信会僧侶を締め出すことができる。しかし御会式や大坊市は、そうはいかないのではないか。それは大坊市そのものは、讃岐本門寺主宰ではなく、地元の人やテキ屋が行っている行事だからだ。前回の1988年訪問の時は、そのあたりが確認できなかったので、大坊市が賑わう中、内塔中に行ってみた。テキ屋の出店は、内塔中にも所狭しと並んでいた。

 

讃岐19テキ屋4
 

(内塔中に並んでいたテキ屋の出店)

泉要坊は、大石寺直系僧侶が住職の坊であるため、門が開けられ、垂れ幕も下げられていた。

 

讃岐22泉要坊1
 

(泉要坊)

法善坊も住職無住の坊ではあるが、門が開けられ、垂れ幕が下げられていた。


讃岐23法善坊1
 

(法善坊)

では正信会僧侶が居住する坊はどうなのか。奥ノ坊に行ってみると、奥ノ坊も門が開けられ、垂れ幕が下がっていた。ただし、泉要坊のように、門前に坊名が書かれた提灯はなし。


讃岐20奥之坊1
 

(奥ノ坊)

「あれれ、正信会も御会式には参加しているのかな」と思い、西之坊に行ってみた。すると西之坊は、門前に坊名入りの提灯は立てられていたが、門がピッタリと閉められていた。


讃岐21西之坊1
 

(西之坊)

まさに「大石寺系の御会式なんぞ、絶対参加しない」とばかりに門を閉め切っていたのが印象的。ずいぶん、頑なな態度ですね。それだけ正信会僧侶の大石寺や阿部日顕に対する恨み・怨念がすさまじいということだろうか。

そうなると、気になるのが、前回の訪問時に、伐り倒されていた大石寺67世日顕手植えの木である。「あれ、どうなったんだろうか」と、阿部日顕手植えの木を探してみると、こちらは隆々とした木に育っていました。植え替えたんですかね。しかし正信会僧侶も今でも内塔中の坊に居住しているわけだから、伐り倒そうと思えば、いつでも伐り倒せるはず。正信会破門からすでに35年以上も経過してしまっているので、伐り倒す気力がなくなったのか。それとも、内塔中に居住している正信会僧侶も、もう齢七十を越えるご老体なので、阿部日顕手植えの木を切り倒すには、体力的に無理ということだろうか。そういうことは、どちらでもいいですけどね。

 

讃岐28日顕手植え1
 

(阿部日顕手植えの木)