■検証49・日朗の富士来訪、日頂の重須帰伏は「血脈相承」とは全く関係なし

 

□日頂が重須に帰伏したのは養父・富木常忍に勘当され弘法寺から擯出された故である

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(日蓮正宗の妄説)

他門では"六老僧は平等"などと主張しているようであるが、その平等であるはずの日頂師が、最後の最後になって日興上人に帰依した事実は、重大である。このことは、師自身、法門に対する信解は拙なかったにせよ、日興上人が大聖人の付弟であるという客観的事実は無視できなかったということを示しているのではないか。

日興上人在延中は"地頭が不法だから"という理由で、久遠寺を訪ねることがなかった日朗であるが、身延離山後の日興上人を2度も訪ねている。同師は、身延の日向をはじめ他の本弟子を訪ねているのだろうか?日朗は日頂師と異なり、"心は・をちねども身はをち"たようである。

(日蓮正宗信者が日蓮正宗系掲示板に書いた書き込み)

 

日蓮正宗は、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」とは何の関係もないこと、ありとあらゆることを、何がなんでも「二箇相承」「唯授一人血脈相承」実在に、こじつけようとしているようで、日朗来参、日頂帰伏の件を持ち出しているのも、そのうちのひとつである。

日頂は、もともとは駿河国の南条家の出身であり、後に、日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となった人である。日蓮の没後、身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめたが、晩年に、故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となったのは、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」があったからではなく、1293年(永仁元年)に養父・富木常忍と対立し、弘法寺を擯出されてしまったからである。駿河国重須(北山)本門寺の日興のもとへ来たのも、もともとが駿河国の南条家の出身であり、南条家の外護のもとにあった日興のもとへ来ただけのことで、「二箇相承」があったからでもなければ、日興を「本門弘通の大導師」と認めたからでもない。そもそも義父に勘当されて寺院から擯出されてしまったら、どこに行くのかというと、実家の里親のもとに帰るしかないではないか。

 

北山本門寺40仁王門
 

(今の北山本門寺)

 

 

 

 

□日朗の富士詣では疎遠の今を昔に還すべく昔を懐かしんで詣でたと言っている堀日亨

 

日朗が日興のもとを訪ねたのは、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」が実在していて、日興に帰伏したからではない。

日朗は、日蓮没後においては、相模国鎌倉比企谷妙本寺を建立し、そこを拠点として同じく六老僧の一人日昭とともに教線を延ばした。

1288年(正応元年)、日蓮七回忌の時に池上宗仲の協力のもと日蓮の御影像を造立し、武蔵国池上本門寺を築いた。また、下総国曾谷氏の庇護により下総国平賀本土寺を開創。そして、弟子日印が開山で越後国山吉氏が建立した青蓮華寺に、初祖となることを承諾し山・寺号を授与して、長久山本成寺という名を与えている。この越後本成寺とは、法華宗陣門流総本山の寺である。

その日朗が延慶3(1310)38日に富士に詣で、また文保元年(1317)に再び重須(北山)本門寺の日興のもとを訪ねて正御影を拝している。

その日朗の富士来参について大石寺59世堀日亨は、「富士日興上人詳伝」で「日朗、心伏して身は伏せず」と題して、次のように書いている。

「後世の史家六老僧を讃歎して、そのおのおのの特長を挙げて、釈尊の声聞の十大弟子に準ず。それによれば、朗師を給仕第一とし、興師を筆芸第一とすれども、史実は興師こそ給仕第一にして、その時間の長きこと他に勝るると、その親孝の度の高きこと、筆芸を愛用せられしこと、他に独歩するのみならず、その他の特長も多々なるが、朗師は温良の質で、したがって多くの法縁がさいわいに他よりも広く、かつ栄えたるをもって給仕第一の嘉号もまた著しく芳っており、以外の特長を歌われていないが、興師との関係も、また民部向師のごとくに、また天目のごとくには悪しからぬようであるが、神天上に、安国論に、本門に、曼荼羅本尊に縦容であったことは、多数と同類であったことは、各種の史料に見ゆる。

ことに延山にて聖百箇日忌を修しおわって下山する時、密かに御廟所にある立像仏を失敬したことは、顕著の宗義の顚落であり、五人所破抄等の筆誅も当然であるけれども、朗師の心中には、宗義よりも随身仏の愛著が先に立ったのである。これらを追憶して、三十年弱の疎遠のいまをむかしに還すべく、わざと東路の足をはるばる富士へ運んだので、ともどもに老い行く人のなつかしさは、厳格の宗義よりも先に落ちる涙であろう。六人立義私記の日教の筆が真実ならば、聖席の畳の上に湯を取る開山上人の特待ぶりがうなずかるる。正御影に抱きついた朗師の涙ももっともである。この人情味の発露だけでは仕方があるまい。三師伝の道師は『御一同あり地涌千界の眷属』と総合して微細にわたらず、眼前の見聞には『開山へ御対面定めて子細あるべし』と首をひねりて、ともに法義の和合帰一をほのめかせども、不幸にも、池上にても、比企が谷にても、また京都にても、富士通用の路は塞がりきりで残念の至りである」

(堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p306307)

 

306-307日朗心は伏して身は伏せず
 

堀日亨は「日朗、心伏して身は伏せず」と題してはいるものの、日朗が富士に詣でた理由について「朗師の心中には、宗義よりも随身仏の愛著が先に立ったのである。これらを追憶して、三十年弱の疎遠のいまをむかしに還すべく、わざと東路の足をはるばる富士へ運んだので、ともどもに老い行く人のなつかしさは、厳格の宗義よりも先に落ちる涙であろう」と、昔を懐かしんで詣でたのであると書いている。したがって、日興のもとへ日朗が来訪したことは「二箇相承」とは何の関係もないことであり、これらを関連づけようとするのは、日蓮正宗側の単なる「こじつけ」にすぎない。

 

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』