■検証51・「五人所破抄見聞」の筆者は富士妙蓮寺日眼ではなく戦国時代以降の文書である

 

□「五人所破抄見聞」は大石寺9世日有以前に「二箇相承」が存在した証明ではない

 

二つめの文献は、1380(康暦2)年に富士門流の本山寺院・富士妙蓮寺(現・日蓮正宗本山妙蓮寺)5代貫首・日眼が書いたと伝えられる「五人所破抄見聞」という書物で、この中に

「日蓮聖人之御附嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』4p8ページより)

 

4-8.9末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば法頭
 

との文を挙げて、日蓮正宗が「古来から二箇相承が存在していた証拠だ」と言うのである。

しかし、この「五人所破抄見聞」なる文書は、富士妙蓮寺5代貫首・日眼の著書ではなく、もっと後世の室町時代の大石寺9世日有の代以降に成立した文書である。

まず松岡幹夫氏の研究によれば、「五人所破抄見聞」なる文書は、妙蓮寺五代貫首・日眼の真筆文書は存在せず、『富士宗学要集』4巻に「五人所破抄見聞」を編纂・収録した大石寺59世堀日亨の意見によると、古来から伝わっている写本と称するものには、通読しがたいほどの錯誤や誤りが多数あり、現行の『富士宗学要集』に収録されている「五人所破抄見聞」は、堀日亨が大胆に編集・編纂したものであるという。

宮崎英修氏は「五人所破抄見聞の価値」と題する論文の中で

「年号、年数、干支、年月日という書き方は、戦国時代の末ごろから稀に見られ始め、江戸期に入って間もなく一般的になるものであって、鎌倉時代、室町時代の通格は康暦二庚申六月四日と記して、決して康暦二庚申年六月四日とは書かない」(『棲神』p160)

と書いている。これはどういうことかというと、「五人所破抄見聞」の末尾の文にこう書かれている。

「伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼 在御判」 (「富士宗学要集」第4p26)

 

4-26康暦二庚申年六月四日書畢 本化日眼
 

この「康暦二」と「年」の間に「庚申」という干支を書き入れるような用法は、戦国時代から江戸時代にかけて一般的に定着していく、というのが宮崎英修氏をはじめとする説であり、それからすると1380(康暦2)年に、「康暦二庚申年六月四日」といった書き方はされない。したがって、この「五人所破抄見聞」の末文は、1384(至徳1)年に遷化している富士妙蓮寺五代貫首・日眼の筆ではなく、後世の時代の人の筆ということになる。

 

 

 

□「五人所破抄見聞」の著者は富士妙蓮寺5代日眼ではなく大石寺9世日有・戦国時代以降に成立した文書である

 

さらに「五人所破抄見聞」の中に「伝奏」について記した文があり、宮崎英修氏は、これは1470(文明4)年以降でなければ書けない記述であるからして、富士妙蓮寺5代貫首・日眼の著書説に対して、重大な疑問を投げかけている。宮崎英修氏の説は、「日眼」とは、富士妙蓮寺5代貫首・日眼ではなく、大石寺9世法主日有とほぼ同時代を生きた西山本門寺8代貫首・日眼(文明1848日死去)であるという説に立っている。

池田令道氏の説によると、「五人所破抄見聞」では、従来からの日蓮正宗を含めた富士門流の所伝と異なる日昭・日朗・日興・日頂・日持の五人の身延離山説を唱えていること、この五人離山説の発祥は、京都要法寺の日尊門流であって、日尊門流出身の大石寺僧侶・本是院日叶(左京阿闍梨日教)の著書「百五十箇条」にも見られることなどからして、「五人所破抄見聞」は本是院日叶(左京阿闍梨日教)の「百五十箇条」の成立以降に書かれたという説である。

東佑介氏は「五人所破抄見聞」の中に出てくる「日仙日代問答」(仙代問答)の記述内容、日蓮本仏義の内容、当代法主相承論の内容からして、本是院日叶(左京阿闍梨日教)の教説・学説の大きな影響を受けており、「五人所破抄見聞」の著者は富士妙蓮寺五代貫首・日眼でも西山本門寺8代貫首・日眼でもない、日目門流の者であるという説に立っている。

このように「五人所破抄見聞」の著者は西山本門寺8代貫首・日眼説、日目門流説等々、松岡幹夫説、宮崎英修説、池田令道説、東佑介説等、研究者によって意見が大きく分かれている。

しかし松岡幹夫説、宮崎英修説、池田令道説、東佑介説で共通している部分がある。それは「五人所破抄見聞」の著者は富士妙蓮寺五代貫首・日眼ではなく、1470(文明4)年以降、大石寺9世日有の代以降に成立した文献であるということである。その決定的な証拠は宮崎英修説にあるように、「五人所破抄見聞」の末文の「康暦二」と「年」の間に「庚申」という干支を書き入れるような用法は、戦国時代から江戸時代にかけて一般的に定着していくというのが定説であり、1380(康暦2)年に、「康暦二庚申年六月四日」といった書き方はされない、ということである。

したがってこれからすると、「五人所破抄見聞」の筆者は富士妙蓮寺日眼ではなく戦国時代以降の文書である、ということであり、「五人所破抄見聞」は大石寺9世日有以前に「二箇相承」が存在した証明ではない、という結論になるのである。

 

宮崎英修(19151997)

昭和十二(1937)年三月、立正大学文学部(宗学科)を卒業。

立正大学仏教学部教授、同日蓮教学研究所長、日蓮宗現代宗教研究所長、身延山大学学長、日蓮宗勧学院長などを歴任。

立正大学・身延山大学名誉教授、文学博士。

「波木井南部氏事跡考」「法華の殉教者たち」「日蓮とその弟子 」など、たくさんの著書がある。

 

池田令道

元日蓮正宗の僧侶、在勤教師会のメンバー、現在は「興風談所」で、日蓮宗学、富士門流宗学研究に取り組んでいる。

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』