■検証52・江戸時代以前の大石寺では深夜の丑寅勤行は行われていなかった1

 

□江戸時代以前に深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことは物理的に不可能だった

 

大石寺法主の「唯授一人血脈相承」の相伝文書のひとつである「日興跡条条事」を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文

「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

 

 16-17日興跡条条事

18-19日興跡条条事


1883日興跡条条事

この「日興跡条条事」第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと言う。日蓮正宗は、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。

しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。もっと言うと、日興在世の時代に、否、日興在世の時代のみならず、ヨーロッパから機械時計が伝来した江戸時代以前の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。

1 毎日深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の深夜の時間帯の正確な時刻を測定できない。

2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)11日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)1011日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。

3深夜2時から4時の時刻の勤行など、どこの寺院でも行われていない。

日蓮正宗は、丑寅の時刻に勤行を行う縁由について、釈迦如来が菩提樹下で悟りを開いた時刻が丑寅の時刻だったから、あるいは日蓮遺文の文を挙げるが、それならば仏教各宗派の寺院でも丑寅勤行が行われていても不思議はない。しかしどこの寺院でも、深夜2時から4時の時刻に勤行など行っていない。身延山久遠寺や池上本門寺の朝の勤行は、日の出まもない午前5時ないし5時半である。

 

252-253十二支時刻1
 

(「逆説の日本史」に載っている和時計)

 

 

□不定時法では日ノ出の時刻、朝起きる時刻が「寅の刻」で深夜2時~4時のことではない

 

太陽暦が導入される以前の日本の時刻は、どういう数え方をしていたのか。これは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」9巻に詳しいので。引用してみたい。

「『五ツ』とは午後八時頃、子丑とは子の刻(午後11時頃~午前1時頃)から丑の刻(午前1時頃~午前3時頃)のことである。「頃」が「うるさい」かもしれないが、これは仕方ない。昔と今では時の数え方が違ったのである。たとえば今、「午前六時には日ノ出が始まっているか」と質問したとしよう。これは簡単には答えられない。なぜなら「北海道」か「九州」か、という場所によっても違うし、「夏」か「冬」か、という季節によっても違うからだ。ところが、昔はこれが逆だったのである。というのは「日ノ出」の時刻はすべて「寅の刻」(あるいは「卯の刻」)と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数え方だったからだ。これを不定時法という。つまり、昔は津軽(青森県西部)でも薩摩(鹿児島県西部)でも、夏でも冬でも、日ノ出の時刻は全く同じだったのである。不定時法では、昼夜をそれぞれ六等分するのだから、一刻=二時間とは言えなくなる。昼夜の長さの等しい「春分」「秋分」では、そう言えるが、たとえば夜の一番長い、「冬至」の日では、夜の一刻は二時間よりはるかに長く、昼の一刻は二時間よりも短い。

現代人の目から見ると大変不都合に見えるかもしれないが、実は昔は、こちらの方が都合がよかったのだ。今なら、青森と鹿児島の空をTV中継で同時に見ることができる。電話や無線を使って瞬時に話すこともできる。こういう世界では時刻を統一していないと、何かと不便である。ところが昔はそんなものはないし、何より人間が夜間に活動できる場所も余裕もなかった。コンビニもタクシーも、居酒屋すらないのだ。照明というのが、貴重な油を使ったぜいたく品だったこともある。

したがって、今でも開発途上国では行われているという習慣、つまり「日ノ出と共に起き、日没とともに寝る」ということが常識だったのである。そうした世の中では、起きる時刻を「寅の刻」と定めておいた方が、何かと便利である。ただし、寅の刻とはだいたい「二時間前後の早朝を中心とした時間帯」を指すので、漠然としている。そこで、今でいう「午前六時」や「午前七時」にあたる言い方もあった。それが「五ツ」とか「六ツ」なのである。」

(「逆説の日本史」9p252-254)

 

252-253十二支時刻1


254-255十二支時刻2
 

この井沢元彦氏の説によれば、不定時法では日ノ出の時刻、朝起きる時刻が「寅の刻」であるということになる。井沢元彦氏が示している「和時計」でも、「丑寅の時刻」とは午前1時から午前4時ころということになる。そんな時刻に勤行するには、機械時計がなければ絶対に不可能。

日の出の時刻を「寅の刻」とすれば、日ノ出の時刻は、1年春夏秋冬で違っている。夏なら午前4時ころから明るくなるが、冬の頃の日ノ出は午前6時過ぎである。そうすると、不定時法の丑寅の時刻は、大石寺の「丑寅勤行」が行われている午前2時半から午前4時とは、大きく食い違うことになる。

 

66日達・大客殿・丑寅勤行1


66日達・大客殿・丑寅勤行2
 

 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)