■検証53・江戸時代以前の大石寺では深夜の丑寅勤行は行われていなかった2

 

□江戸時代以前に深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことは物理的に不可能だった

 

井沢元彦氏の説では、定時法が導入される前の不定時法では、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかただった。しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。それをすべて日の出の時刻を基準にして昼夜をそれぞれ六等分するのだから、一刻=二時間とは言えなくなる。昼夜の長さの等しい「春分」「秋分」では、そう言えるが、夜の一番長い「冬至」の日では、夜の一刻は二時間よりはるかに長く、昼の一刻は二時間よりも短いということになる。

こういう不定時法のほうが、昔の人にとっては都合がよかった。昔はTV中継もなければ電話、無線もないし、コンビニもなければ車もない。人間が夜間に活動できる場所も余裕もなかった。今のような照明もなく、灯といえば貴重な油を使った贅沢品だった。つまり昔は、「日の出とともに起きて、日没とともに寝る」ということが常識だった。そういう世の中では、起きる時刻を「寅の刻」と決めておいたほうが便利である。ただし、「寅の刻」とはだいたい「二時間前後の早朝を中心とした時間帯」を指すので、漫然としている。そこで今でいう「午前六時」や「午前七時」にあたる言い方もあった。それが「五ツ」とか「六ツ」である。室町時代ごろから日の出と日の入(または夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられるようになったが、天文や暦法で使う時法は一貫して定時法であった。なお江戸時代には、その不定時法に時間表示を合わせた和時計も作られた。-------

東京・谷中にある大名時計博物館にある史料「大名時計博物館報NO3」の中に、不定時法について書いてある資料があるが、内容はほとんど井沢元彦氏の説と同一である。「大名時計博物館報NO3」の中に、不定時法の時刻と現代時刻の比較表が載っていて、これが実にわかやすい。

 

3-4不定時法


5-6不定時法時刻と現代時間


7-8江戸時代時刻


 

(大名時計博物館にある「大名時計博物館報NO3)

 

 

 

□日ノ出の「寅の刻」(午前3時半~6時派半)に行われる勤行は「暁天勤行」であって「丑寅勤行」ではない

 

「本当に日興在世の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたのか」

こういう単純な疑問を解き明かすため、時計のことから何から調査がはじまったのだが、時計のことを調べる前に、1日の時刻や暦についても調べる必要があり、まずはさまざまな歴史本や資料を読んで調べるところから始まった。そういう中でわかったことは

1 江戸時代以前の日本においては、今のような定時法ではなく、日の出から日の入りまでを基準とする不定時法だった。「日の出」の時刻はすべて「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」。

現在のような定時法が導入されたのは、明治維新以降のことである。

2日の出とともに起きて、日没とともに寝る、ということが常識だった昔は、不定時法のほうが人々の生活に都合が良かった。

つまり、日の出を寅の刻とするのなら、丑寅の時刻とは、陽が昇り始める時刻であり、夏なら午前3時半くらい。冬なら6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいだろうか。日の出を寅の刻と決めてしまうのなら、何も機械時計がなくても、時刻を知ることが出来る。しかしその場合、丑寅の刻とは、午前2時から4時ではなく、夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいと、かなり時刻に幅が出てしまう。

つまり、明治維新以前、日本で定時法が導入される以前、大石寺でも同じように不定時法を採用していたと言うなら、その時代に行われていた「丑寅勤行」とは、今の丑寅勤行とはちがったものだ。それは、身延山久遠寺や池上本門寺等の寺院の他、仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」と何ら変わりはない。

仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」は、丑寅勤行とは言わず、一般的に「暁天勤行」(ぎょうてんごんぎょう)と言う。「暁天」とは辞書によれば

「明け方の空。また、夜明け」(大辞泉国語辞典)

と載っている。今は暁天勤行とは言わず、早朝勤行と言う寺院も多い。日蓮正宗の末寺寺院でも、早朝6時や6時半ころに本堂で勤行を行っている寺院がいくつもあるが、いずれも「早朝勤行」とか「朝の勤行」と呼んでいて、丑寅勤行とは言わない。丑寅の刻に行う丑寅勤行と、明け方に行う暁天勤行ないしは早朝勤行は、別のものである。こう言うと大石寺僧侶や妙観講あたりは「大石寺では丑寅勤行が朝の勤行に当たるのだ」と言うのだろうが、この言い訳は完全なまやかしである。「アンチ日蓮正宗」が言っているのは、実際に勤行が行われる時刻のことを言っており、丑寅の刻なのか、それとも太陽が昇る明け方に行うのか、ということを問うているのであり、勤行の意義付けのことを言っているのではない。

日興在世の時代に、深夜2時から4時の正確な時刻に丑寅勤行を行うことは、物理的に不可能だった。

 

67日顕・大客殿・丑寅勤行1(1990年三万総会)
 

(大石寺67世日顕法主の丑寅勤行・法華講連合会「三万総会写真集」より)