■検証55・日興在世当時の大石寺では丑寅勤行は行われていなかった4

 

□不定時法の時代は夜明け前の勤行を丑寅勤行と称していたことを認めた大石寺66世日達

 

日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、1977(昭和52)526日の大石寺大講堂で行われた寺族同心会の席上で、「不定時法」の時代の丑寅勤行について、次のように言っている。

「『勤行を致し』、これは今は丑寅の勤行を云っております。それじゃ丑寅と書いてない。どこを丑寅と言うかと非難するでしょう。昔は電気もランプもなかった時代には、夜、日が暮れると寝て、朝、日が出る前に、薄明るくなった時に起きて勤行する。これは習慣であります。」

 

446-447墓所・御堂・灰骨・丑寅勤行・寝起き習慣
 

(1977526日大石寺大講堂・寺族同心会・日達指南「日達全集」第2輯第5p447)

「『勤行を致し』、ここでは丑寅勤行とは申しておりませんが、この時分の勤行というのは必ず早朝であります。夜明けのまだ太陽が昇る前、朝になりかかった時、お経をあげるのであります。夜、日が落ちれば休み、もう太陽が出る前には起きるということは、昔からの習慣で当然であります」

 

350-351丑寅勤行時刻・譲座本尊
 

(1971529日・大石寺大講堂・寺族同心会大会・日達指南「日達全集」第2輯第5p350)

この細井日達の説法は、「不定時法」の時代においては、世間の風習に則って、夜明け前くらいに行っていた勤行を丑寅勤行と称していたことを認めたものである。しかし大石寺が江戸時代以前において、不定時法を採用していたと認めるならば、1549年の機械時計伝来以前において、今の深夜2時から4時にかけて行われている丑寅勤行は、行われていなかったと認めるべきである。

不定時法の時代から、日蓮宗をはじめとする仏教各宗派の寺院では「三時の勤行」と言って、朝・昼・晩と13回の勤行をしていた。身延山久遠寺などでは今でもこの「三時の勤行」を行っている。時刻は朝がだいたい5時半。昼が正午。晩が午後4時半ころである。大石寺も昔はこの「三時の勤行」を行っていた。それを近代に入って、朝・夕の12回の勤行にして、朝の勤行を「丑寅勤行」などと称するようになったのである。

もちろん、大石寺客殿の丑寅勤行を今の深夜2時から4時にかけて行うようになったのは、機械時計が伝来した1551年以降、不定時法の和時計が日本に広まった江戸時代以降のことである。それ以前の大石寺客殿の勤行は、日蓮宗・身延山久遠寺をはじめとする仏教各宗派の寺院で行われている「三時の勤行」の朝の勤行と同じ時刻に行われていた。つまり夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいに朝の勤行を行っていた。これを後になってから「丑寅勤行」と称するようになっただけのことである。

よって「日興跡条条事」第三条の文

「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

にある「勤行」とは、今の「丑寅勤行」のことではない。不定時法の時代に行われていた「朝の勤行」と、今の深夜・丑寅の刻に行われている「丑寅勤行」とは、別個の勤行である。

 

 

 

□大石寺に一夜番僧侶がいても機械時計がなければ絶対に「丑寅の時刻」を知ることが出来ない

 

「丑寅勤行が江戸時代以前の時代に行われていたのかどうか」の論争をすると、日蓮正宗系の者は、大石寺66世細井日達法主が、1971(昭和46)529日、大石寺大講堂での寺族同心会で、大石寺23世日啓の「留守中定」を引いた指南を持ち出してくる。その指南とはこれである。

「ここで丑寅勤行の時間がはっきりしています。一夜番とは、一晩中起きており、丑寅勤行をする役。御宝蔵番は番所に詰めて御宝蔵をお守りする役。この一夜番と御宝蔵番をもって両番役と称し、本山においては大切な役であります。ここでは香を上げる時間表を守って、その遅速ある時は過番として代官仲居がその者に申しつけなさいということです。今は起きる者もたくさんおり、電気もありますから遅れることはありませんが、昔はそうではなかったから、よく寝過ごして過番になった人もあります」

 

368-369丑寅勤行一夜番
 

(1971(昭和46)529日、大石寺大講堂・寺族同心会指南「日達全集」第2輯第5p369)

「この文書において丑寅勤行が丑の下刻とはっきり出てくる。『日興跡条条事』ではただ勤行となっていて、はっきりしませんが、後になると、もっとはっきりしてきます」

(1971(昭和46)529日、大石寺大講堂・寺族同心会指南「日達全集」第2輯第5p369)

この「留守中定」との文書を書き残した大石寺23世日啓法主とは、1688(元禄1)年から1692(元禄5)年までの約5年間、大石寺法主として在職していた人物で、「留守中定」を書いたのは、法主に登座した1688(元禄元年)のことである。この当時の徳川幕府将軍は、五代綱吉。徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開いてから、85年が経ち、元禄泰平の世であった。

そして1551年のフランシスコ・ザビエルによる機械時計伝来から数えて、すでに137年が経過し、日本でも機械時計が生産されていた。元禄三年(1690年)刊の「人倫訓蒙圖彙」との本によれば、かでに日本には、「時計師」という職業があったことが記されている。

大石寺66世細井日達法主の指南を読むと、大石寺には一夜番が居るのだから、さも時計がなくても丑寅の時刻を知ることができると言わんばかりだが、それは間違っている。たとえ大石寺に一晩中起きている一夜番の僧侶が居ても、機械時計がなければ、絶対に「丑寅の時刻」を正確に知ることが出来ない、ということである。この当時の大石寺に機械時計があったかどうかは、議論が分かれるところだが、1971(昭和46)529日の寺族同心会での大石寺66世細井日達法主の指南を読むと、大石寺は機械時計を持っていた可能性が高い。なぜなら、「ここでは香を上げる時間表を守って、その遅速ある時は過番として代官仲居がその者に申しつけなさいということです。今は起きる者もたくさんおり、電気もありますから遅れることはありませんが、昔はそうではなかったから、よく寝過ごして過番になった人もあります」と言っており、和時計と不定時法の暦により、時間が計測できたからこそ、寝過ごした遅番になったことが、わかるわけで、時間が計測できなかったら、速番なのか遅番なのかも、わからなかったはずである。大石寺が発刊した「宗旨建立と七五○年の法灯」写真集に、大名が大石寺に供養したとする江戸時代の大石寺の和時計<大名時計>が載っている。したがって江戸時代の大石寺は、和時計を持っていたと考えられる。

大石寺に一夜番の僧侶がいて、一晩中起きていても、起きているだけでは深夜の時刻を知ることは出来ない。機械時計がなければ絶対に太陽が沈んでから日ノ出までの間は、「今、何時なのか」はわからない。したがって、1971(昭和46)529日、大石寺大講堂での寺族同心会での大石寺66世細井日達法主の指南は、日本に機械時計が伝来して以降の時代に、大石寺で丑寅勤行が行われていた証明にはなるが、機械時計が伝来する1551年以前の時代に大石寺で丑寅勤行が行われていた証明には、ならない。大石寺に一夜番僧侶がいても機械時計がなければ絶対に「丑寅の時刻」を知ることが出来ず、機械時計が伝来する以前の時代に、丑寅の時刻に勤行することは、物理的に不可能なのである。

 

一夜番1(原進)


一夜番お華水1(原進)
 

(大石寺「一夜番」の僧侶・『原進写真集』より)

 

大石寺和時計(立宗750年写真集)
 

(大石寺「宗旨建立と七五○年の法灯」に載っている、大名が大石寺に供養したとする江戸時代の大石寺の和時計<大名時計>)