■一般社団法人仏教宗学研究会・日蓮正宗寺院・現地視察学習会26

 

□長年の風雨で堂宇の木が古くなっていた1974年、創価学会の供養による再建の御影堂(本堂)1986年再建の日華堂

 

2019221日に一般社団法人仏教宗学研究会で行った日蓮正宗本山・富士妙蓮寺・現地視察学習会の時の見聞記になります。仏教宗学研究会・現地視察学習会のレポートは、一般社団法人設立以前の公式行事、設立以降の公式行事も含めて、通常は「一般社団法人仏教宗学研究会・公式ブログ」にアップするのでありますが、富士妙蓮寺も、富士門流本山であると同時に、日蓮正宗本山寺院でありますので、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」にアップいたします。

「アンチ日蓮正宗」管理人が、富士妙蓮寺に行ったのは、20095月に、仏教宗学研究会でマイクロバスを借り切り、静岡県富士宮市の寺院参拝会、富士宮御穴見学会を行って以来、実に10年ぶりのこと。ただしこの時は、1日に数カ所を訪問したため、富士妙蓮寺での時間がなくなってしまい、ゆっくりと寺跡調査が出来ず終いになった。その前の訪問は、1990年代のときで、富士妙蓮寺住職(貫首)は、先代の吉田日勇氏であった。すでに「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」に書いているが、その時は富士妙蓮寺客殿の「勤行会」に参拝し、客殿内をいろいろ見学したときである。その時に富士妙蓮寺客殿の板曼荼羅本尊を間近に見学している。

何度も富士妙蓮寺に来ているのだが、基本的に一見して寺院の伽藍は、ほとんど変わりがない。大石寺は、ここ20年の間に、奉安堂が建ち、六万塔・新六万塔が移転し、御影堂が修復され、塔中坊のほとんどが建て替えになり、常来坊、常灯坊、登山事務所、法華講事務所(旧登山センター)も建て替えになり、伽藍が大きく様変わりしたが、富士妙蓮寺は、ほとんど変わりがない。

変わったと思われるのは、御影堂(本堂)と日華堂が、かなり古ぼけたことぐらいか。

御影堂(本堂)は、1974(昭和49)年、池田大作の発願、創価学会の供養、寄進によって再建された堂宇。日華堂は1986(昭和61)年に富士妙蓮寺が再建した堂宇。どちらの堂宇も、1990年代のころは、まだ堂宇の木がまだ目新しさが残っていたが、あれから20年以上の歳月が経ち、今はもう、木が長年の風雨で、古くなっていた。1995年に富士妙蓮寺に行ったときに、もらってきた小冊子「本山妙蓮寺」に、当時の御影堂(本堂)、日華堂の写真が載っており、今の写真と比較すると、その違いがよくわかる。

 

御影堂2
 

(今の富士妙蓮寺本堂)

 

富士妙蓮寺14本堂
 

(1990年代のころの富士妙蓮寺本堂・小冊子「本山妙蓮寺」より)

 

日華堂1
 

(今の日華堂)

 

富士妙蓮寺13日華堂
 

(1990年代のころの日華堂・小冊子「本山妙蓮寺」より)

 

 

 

 

□富士妙蓮寺墓苑の歴代住職墓地にあった富士妙蓮寺45代住職・吉田日勇氏の墓所

 

今回の富士妙蓮寺の訪問で、富士妙蓮寺墓苑に富士妙蓮寺45代住職・吉田日勇氏の墓所を見つけた。

吉田日勇氏は1922(大正11)11日生まれ。吉田日勇氏の師僧は、最初は東京・池袋の常在寺住職・桜井仁道氏。1943(昭和18)2月、桜井仁道氏の死去により、吉田日勇氏は東京・池袋の法道院三代主管・早瀬道応(日慈)氏に師僧変更。道号(能化補任前の通名)を「義誠」と名乗る。教師に補任された後、吉田義誠(日勇)氏は大石寺塔中蓮成坊、百貫坊、東之坊住職を歴任。大石寺内事部仲居として大石寺64世水谷日昇法主、大石寺65世堀米日淳法主に仕えた。1960(昭和35)年、日蓮正宗宗務院に渉外部が設置されると、吉田義誠(日勇)氏は大石寺66世細井日達法主から初代渉外部長に任命される。吉田義誠(日勇)氏が取り組んだ問題は、松本勝弥氏の正本堂供養金返還訴訟、浅井親子の妙信講問題、そして西山本門寺問題である。創価学会「折伏大進撃」の全盛時代に、富士門流本山である讃岐本門寺、富士妙蓮寺、保田妙本寺、日向定善寺が日蓮正宗に合同。さらに1957(昭和32)年に、西山本門寺49代・由比日光貫首が、塔中・末寺・檀家の承認なく、貫首の独断で、日蓮宗から離脱して単立となり、その後、なんと日蓮正宗に合同してしまうという暴挙に出た。これが貫首の独断で行ったことから、日蓮正宗宗門・西山本門寺・由比日光貫首と、日蓮正宗合同に反対する西山本門寺塔中・末寺・檀家で大紛争になり、最終的にこの紛争は、裁判の場に持ち込まれた。由比日光49代貫首は、後継者として日蓮正宗宗務院渉外部長の吉田義誠(日勇)氏を指名。吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺大学頭・副住職として赴任した。1965(昭和40)4月、由比日光49代貫首が遷化(死去)し、吉田義誠(日勇)氏が50代貫首として晋山。由比日光貫首の葬儀は、西山本門寺客殿で、大石寺66世細井日達法主が下向し、大勢の日蓮正宗末寺住職・僧侶が参列して行われている。

日蓮正宗・西山本門寺貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家との裁判は、最高裁判所まで持ち込まれ、1975(昭和50)年、檀家側の勝訴で最終決着した。これにより吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺から退出。旧門末・福正寺の森本正明(日正)氏が正式に後任貫首として晋山。西山本門寺は、日蓮正宗から再び離脱し、法華宗興門流を公称。吉田義誠(日勇)氏は西山本門寺歴代貫首からは除歴され、森本日正氏が50代貫首となっている。

その後、吉田義誠(日勇)氏は、富士妙蓮寺44代住職・漆畑日広氏の197974日の死去のあと、後継の45代住職として晋山。能化に昇進し、法名を「常健院日勇」と名乗った。

吉田日勇氏の墓所に行ってみると、たくさんの塔婆がまとめて建てられていた。塔婆には南無妙法蓮華経の下に、「慧光照無量 寿命無数劫」の経文。その下に「奉擬本山妙蓮寺第四十五代常健院日勇上人報恩謝徳也」と書いてあった。「日勇上人」と上人号になっているから、これは吉田日勇氏が生前の僧階が、僧正以上であったことを意味する。吉田日勇氏は「僧正」だった。これが権僧正だと、上人ではなく「贈上人」になる。上人号になると、大石寺法主と同じになってしまうが、大石寺法主の僧階は「大僧正」であり、たとえ僧正の能化と雖も、大石寺法主よりも下である。

大石寺法主は、日蓮正宗では唯一、曼荼羅本尊書写、日号授与が認められているが、能化僧と雖も、これは認められていない。

大石寺法主の塔婆は、南無妙法蓮華経の下は「唯我一人 能為救護」の経文。その下は「奉備総本山六十六世日達上人御報恩謝徳也」となる。法主は「奉備」だが能化は「奉擬」。法主の経文は「唯我一人 能為救護」だが、能化は「慧光照無量 寿命無数劫」。法主は「御報恩謝徳也」だが、能化は「報恩謝徳也」で「御」がつかない。

「アンチ日蓮正宗」管理人は、1990年代のころに富士妙蓮寺に行ったとき、吉田日勇氏の説法を聞いており、庫裡に居た吉田日勇氏と話をしたことがある。晩年は病身で、ずいぶんと衰弱したようだが、1990年代のころの吉田日勇氏は、矍鑠とした元気な老僧だった。

 

45代吉田日勇墓所3


45代吉田日勇墓所2


45代吉田日勇墓所1


45代吉田日勇墓所5
 

(富士妙蓮寺墓苑の歴代墓地にあった吉田日勇氏の墓所)