■検証294・おいらん淵殺人事件で暗殺されたのは「戒壇の大本尊」偽作の職人・仏師である5

 

□「戒壇の大本尊」偽作の職人・仏師は日本に輸入されたアヘンによって暗殺された可能性がある

 

「戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日蓮正宗大石寺9世日有にとって、材木職人、加工職人、彫刻の仏師、黒漆塗り職人、金箔加工職人といった人たちがどうしても邪魔な存在になったとしても、たとえば大石寺の信者や武家を使って、職人や仏師を斬殺すれば、その殺害行為が露顕することによっても、大石寺9世日有が「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏」「唯授一人の血脈相承」等々を偽作した欺瞞工作・謀略工作は全て崩壊してしまうことになる。

「おいらん淵」とは、東京都と山梨県の県境付近の、ものすごい断崖絶壁の山道で、今も青梅街道が切り立った断崖をはうように、道路が蛇行している。こんな切り立った断崖絶壁の谷間から、谷底に向かって突き落とされてしまうと、それこそ即死である。

ところが、この室町時代、戦国時代においても、僧侶を殺害することがタブーであったが、逆に人を救うべき立場の僧侶・寺院が殺人を犯すことは、それこそ致命的な大スキャンダルであった。

しかしだからと言って、大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」偽作の仏師や職人たちに、「もう彫刻の仕事は全て終わった。あとは安らかに『入定』して成仏してくれ」と言ったところで、仏師や職人たちが「はいわかりました」とばかりに、簡単に入定の石室に入るはずがない。大石寺9世日有による「戒壇の大本尊」偽作の仏師・職人の殺害が露見すれば、そこから大石寺9世日有の「戒壇の大本尊」偽作の欺瞞工作・謀略工作が露顕してしまう危機に瀕することになる。そうすると、大石寺9世日有からすれば、仏師や職人たちに「安らかに」消えてもらわなくてはならないということになる。そんなことが可能だったのか。

これを可能にした第1が、室町時代にはじめて中国から日本に輸入されたアヘンであったと考えられるのである。アヘン(阿片、鴉片)とは、ケシ(芥子)の実から生産される麻薬の一種である。

アヘンの名は、英語名 opium の中国語の音訳である阿片(a piàn アーピェン)を日本語読みしたものである。明代の中国、江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。20世紀までは、東南アジアの「黄金の三角地帯」で多く栽培されていたことが知られていたが、世界各国の抑制対策が功を奏してか、その地帯での栽培は大きく減少した。2007年の国連の報告書(World Drug Report 2007)によれば、アヘンの82%はアフガニスタンで栽培されているという。

今日では他の麻薬に比べ麻薬性は相対的には少ないとされるが、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、中毒に到る恐れもある。モルヒネなどの多くのアルカロイド類(アヘンアルカロイド)を含んでおり、製薬原料として広く利用されている。アヘンはモルヒネのジアセチル体であるヘロインの原料となるが、ヘロインは麻薬性に偏った成分を持つため、アヘンよりもさらに危険な麻薬として厳しく取り締まられる。アヘンは多くの国で麻薬の一種としてその製造・販売・販売目的の所持が禁止または規制されている。日本では麻薬及び向精神薬取締法とあへん法が、アヘンやヘロインの使用、所持等を禁止している。同法により、原料のケシの栽培自体も禁止されている。あへん法にいう「けし」とは、「あへん」とは、けしの薬汁が凝固したもの及びこれに加工を施したもの(医薬品として加工を施したものを除く。)をいう(同法31号、2号)。

使う意思がなくとも吸引用具を所持(海外では吸引用具が美術品として取引されているところがある)しているだけでも違法になる。刑法第136条-141条でアヘンの製造・輸入・所持・吸煙および吸煙道具の製造・輸入・所持や吸煙場所の提供を禁じており、未遂も処罰される。(刑法第2編第14章「あへん煙に関する罪」)

 

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(おいらん淵付近)

 

 

□超高価なアヘンを甲州・湯之奥金山の金の経済力で入手した大石寺9世日有

 

アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中東、中央アフリカにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。紀元前300年頃のギリシャの哲学者テオフラストスの著書に、アヘンについての記述を見ることができる。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。

5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。シルクロードを通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。

11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からはアヘンは麻酔薬としても用いられた。日本にはじめてアヘンが輸入されたのは、まさにこのころである。日本国内でほとんど産しないアヘンは、日本に輸入されても鎮痛剤、睡眠剤、麻酔薬といった医療用に少量が流通するのみであった。流通したと入っても、アヘンの価格は相当な高価なものであったはずである。現在でもアヘン価格などというものは、ものすごい高価なものである。況んや室町時代においておや、である。アヘンが近代以前において、いかに高価なものであったかという実例を1800年代の清(中国)に見て取れる。

清の商人はアヘンを密輸入していたが、アヘンの輸入代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により清の貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し銀の高騰を招いた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動し、銀貨1両に対して銅銭1000文程度であったものが、銀の高騰により銀貨1両に対して銅銭2000文という比率になった。この頃の清では、税金を銀貨で納付するよう規定していたことから、日常生活で銅銭を使用し、税金の納付において銅銭を銀貨に交換していた農民は納める税金が2倍になった計算である。さらに銀の不足により銀価格が上がる事は、物価が下がる事と同義であり、清の基本的な税制である地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。

しかし甲州・湯之奥金山から産出された「金」による大きな経済力を保持していた大石寺9世日有は、どんな高価なアヘンでも、入手することは可能であった。「金」があれば買えないものはないからである。又、当時の庶民からすれば、日本にはじめて輸入されたアヘンなど、全く未聞未見のものであり、大石寺9世日有から「これを服すよう」言われれば、何の疑いもなく服したものと思われる。こういうふうに考えていくと、大石寺9世日有の謀略を全て可能にしたのは、甲州・湯之奥金山から産出された「金」の経済力ということになる。

 

銀による世界の結びつき1


銀による世界の結びつき2
 

(中世のころの銀による世界の結びつき・世界史図録)

 

アヘン戦争(世界史図録)
 

(アヘン戦争・世界史図録)