■検証308・大石寺の「戒壇大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠90
□大石寺「戒壇大本尊」は大石寺本堂に安置するのが最もふさわしいと説法した大石寺66世日達
大石寺の「戒壇の大本尊」がいつ初出するのかという問題を検証する、もうひとつのポイントは、大石寺の本堂(本尊堂・御堂)である。
1965(昭和40)年2月16日の大石寺大講堂「第1回正本堂建設委員会」で大石寺66世細井日達法主が大石寺本堂についての説法をしている。
「一般の見解では、本門寺の中に戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。堂宇の中のひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院の中のひとつに、戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。よって、(戒壇の)大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。それゆえ百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と、大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり』と、こう明らかにされておるのでございます。したがって、その(日興嫡嫡相承の) 曼荼羅(戒壇の大本尊のこと)を、現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。また当時は、大聖人がおいでになるところが本堂であり、御入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延に参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります……日有上人のころより、御影堂の左(向かって右)に御本尊堂を造られたことが、文献にうかがえます。さらにその後の本尊堂(旧御法蔵)の改築の時と、日精上人の御影堂改築の時の移動により、現在は位置がずれているのでありますが、それからしても、日精上人の両堂建立のお考えも同じであることがわかります」
」(1965(昭和40)年2月20日付け聖教新聞より)
(「日達全集」第1輯第3巻p393-394)
大石寺66世日達の説法によれば、大石寺の「戒壇の大本尊」は、大石寺の本堂に安置するのが最もふさわしいと言っている。ではその大石寺本堂(本尊堂)は、いつ大石寺に初出するのか。
(かつて「戒壇の大本尊」の開扉を行っていた大石寺御堂(御影堂)・「創価学会創立50周年記念写真集・日蓮正宗創価学会」)
□大石寺9世日有の代に大石寺本堂が初出することは「戒壇の大本尊」が大石寺9世日有の代に初出したことの証明
大石寺9世日有以前の大石寺には「本堂」がなかった。大石寺に本堂ができたのは、いつのことなのか。それは大石寺9世日有の代である。1492(文明14)年9月7日の大石寺と北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の問答・法論を記した「本乗寺日会」の記文には、次のようにある。
「九月七日午の尅、大石寺本尊堂に著座す。…かくて本尊堂より大坊へ使僧信乗坊日遵仏法の筋目尋ね畢ぬ」(「本乗寺日会」の記文・「富士宗学要集」第9巻P53)
この文書により1492(文明14)年9月7日の大石寺と北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の問答・法論があった時、大石寺には「本尊堂」つまり本堂があったことがわかる。
保田妙本寺・小泉久遠寺11代貫首・日要(1436~1514)が、大石寺9世日有から聞いた説法を、弟子に語っていた内容を日果という僧侶が筆録した文書「新池抄聞書」にも本尊堂が出てくる。
「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」
(「新池抄聞書」/大石寺59世堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・下」p84)
大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」を偽造したと非難する北山本門寺6代日浄の文書「日浄記」にも、大石寺に本堂があったことが記されている。
「当山第六世日浄上人伝に云く『大石寺日有云く、重須は生御影堂正意、大石寺は本堂正意なり。故に国主本門の正法を立てらるる時は此の板本尊即ち本門戒壇の本尊と云々。』 …
是れ日浄上人は日有の時の人なり。已にそれ未聞未見の板本尊を彫刻すと云う。偽造たること白々たり。又、小泉久遠寺の日要、日我等、日有の真似をして重須は御影堂正意、久遠寺は本堂、能開所開、両寺一味などと云う」(「大石寺誑惑顕本書」p6~p7)
さらに大石寺9世日有の説法を筆記したとされる「日有化儀抄」や「日有御物語抄」の中に「御堂」という単語が登場してくる。それらを列挙すると
「法花宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧くる事有り、之を制すべからず、既に順縁なるが故なり」
(「日有化儀抄」・「富士宗学要集」第1巻p75)
「法花宗の御堂なんどをば日本様に作るべし、唐様には作るべからず、坊なんども結構ならんは中門車寄なんどをもすべし」
(「日有化儀抄」・「富士宗学要集」第1巻p76)
「当宗の御堂は如何様に造たりとも皆御影堂なり、十界所図の御本尊を掛奉り候へども、高祖日蓮聖人の御判御座せば只御影堂なり」
(「日有御物語抄」・「富士宗学要集」第1巻p193)
ここにある「御堂」とは、「戒壇の大本尊」を祀る堂宇で、本尊堂(本堂)のことである。これらの文献からして、大石寺には、突如として大石寺9世日有の代に本尊堂(本堂)・御堂が登場する。大石寺の本尊堂(本堂)とは、もちろん「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀る堂宇に他ならない。大石寺9世日有の代になってから、大石寺に「戒壇の大本尊」を祀る本尊堂(本堂)・御堂が登場するということは、「戒壇の大本尊」が大石寺9世日有の代に初出した、ということであり、「戒壇の大本尊」は大石寺9世日有が偽作した証拠ということである。
(大石寺「戒壇の大本尊」)
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