■検証309・大石寺の「戒壇大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠91

 

□「戒壇大本尊」の単語だけ捜して大石寺独自教義「事の戒壇」の検証を欠いている日蓮宗住職

 

20179月に日蓮宗住職と法華講員の間で、「大石寺の『戒壇の大本尊』の初出はいつなのか」について、少々興味深い論争が行われた。このメール問答の詳細は「法華講員vs日蓮宗住職」に載っているのだが、日蓮宗住職のほうが大石寺「戒壇の大本尊」の初出を、「日有物語聴聞抄佳跡上(日有物語抄)」の文だとするものである。日蓮宗住職側が取り上げた文は次の文である。

「次に本門戒壇の御本尊の寸尺、長さ四尺七寸五分、横二尺一寸七分、厚二寸二分御首題御勧請皆金薄入りなり。仏滅後二千二百二十余年等と云々、御端書、右現当二世造立如件、本門戒壇之願主弥四郎国重敬白、法華講衆等、弘安二年十月十三日云々、当山に之有り」

(日有物語聴聞抄佳跡上(日有物語抄)/富士宗学要集第1p250-251)

250-251松野殿御書1
 

 

この問答の行方、結果はここでは関係ないので、さておくとする。問題は日蓮宗住職が「戒壇の大本尊」初出の文を、「日有物語聴聞抄佳跡上(日有物語抄)」の「次に本門戒壇の御本尊の寸尺、長さ四尺七寸五分、横二尺一寸七分、厚二寸二分御首題御勧請皆金薄入りなり。仏滅後二千二百二十余年等と云々、御端書、右現当二世造立如件、本門戒壇之願主弥四郎国重敬白、法華講衆等、弘安二年十月十三日云々、当山に之有り」としたことである。

この文は、「日有物語聴聞抄佳跡上(日有物語抄)」の文であることに違いはないが、よく見てわかるとおり、これは大石寺9世日有の文ではなく、「日因私に云く」につづく文なので、大石寺31世日因の文である。したがって、この文そのものは、大石寺9世日有の代における「戒壇の大本尊」初出を証明するものではない。

この間違いの源は、「戒壇の大本尊」の初出を探すに当たって、「本門戒壇の大御本尊」「本門戒壇御本尊」といった「単語」だけを血眼になって捜すことにある。

「『戒壇の大本尊』の在所の堂宇が本門事の戒壇」「『戒壇の大本尊』の在所は何処何方であっても事の戒壇」という大石寺独自の教義、大石寺9世日有が発明した教義のポイントは、「戒壇の大本尊」なる板本尊と、「事の戒壇」という教義は、全く表裏一体であるということになる。大石寺66世細井日達は、「本門事の戒壇の本義」の緒言の中で

「日蓮正宗の宗旨の三秘は本門事の戒壇の御本尊の一大秘法に納まるのである。故に、本宗において御戒壇様と申し上げる時は、直ちに本門事の戒壇の御本尊をお指し申しているのである」

(「本門事の戒壇の本義」緒言・「日達全集」第2輯第7p512)

 512-513戒壇の大本尊在所事の戒壇

と言っているとおり、大石寺門流(日蓮正宗)では、「戒壇の大本尊」と「事の戒壇」が同義語として扱われてきたのである。つまり大石寺の「事の戒壇」とは、それは即、「戒壇の大本尊」の異名ということになる。であれば、「戒壇の大本尊」の初出がいつかを検証するには、単に「本門戒壇の大御本尊」「本門戒壇御本尊」といった「単語」だけを血眼になって捜すだけでは不充分であり、「事の戒壇」「『戒壇の大本尊』の在所の堂宇が本門事の戒壇」「『戒壇の大本尊』の在所は何処何方であっても事の戒壇」という大石寺独自の教義の初出を全て捜さなくてはならない。そういう検証を根本から欠いているのである。

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(「戒壇の大本尊」初出はいつかの問答が載っている「法華講員vs日蓮宗住職」)

 

 

 

□「戒壇大本尊」の単語だけ捜して大石寺独自教義「事の戒壇」の検証を欠いている富士門流ニセ坊主軍団

 

これと同じ間違いを「旧・富士門流執着軍団」(今の富士門流ニセ坊主軍団)も犯している。20082月の「富士門流ニセ坊主軍団」のニセ坊主Bのホームページには、こんなことが書いてある。

「れん師は、初代彫刻(戒壇の大本尊のこと)の造立は、大石寺(14)日主の頃と推定していた。その在位は、日蓮三百回忌にある。完則図、日憲『当家諸門流継図事』の記録を考え併せると、もし、この時期に造立されたとしても、熊田本に載る写真のものとは別のものと考えられる」

「石山法主の著述で“本門戒壇御本尊”の名称の初出は、十四世日主が北山の重宝が紛失した直後に書いた“雑録”の中の日興跡条条事示書ですので、初代彫刻(戒壇の大本尊のこと)を作成したと見られる第一候補の法主は日主ではないかと考えました。ただ日有の連陽房聞書に『異本に云く寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひ』とありますので、この日有の言う“御本尊”が初代彫刻(戒壇の大本尊のこと)またはその原本の紙本(日興や日目が日道に日蓮自筆大曼荼羅を授与した形跡がないので、もちろん捏造の可能性が高い)であれば、その作成年代は室町中期まで遡る可能性はあります」

「文明十四年の小泉久遠寺と石山の問答を記録した『大石寺久遠寺問答記』には、石山本尊堂における問答を記すものの、彫刻(戒壇の大本尊のこと)の存在には何も触れていないことから、この時期に彫刻(戒壇の大本尊のこと)は作成されていないと思います」

2008.2.23-2日有偽作説疑難
 

 

(ニセ坊主Bのホームページに載っている「戒壇の大本尊」初出論議)

14日主・日興跡条条事示・本門戒壇御本尊
 

 

(日興跡条条事示書「歴代法主全書」第1p459)

一読して笑ってしまうような妄言が所狭しと並んでいる。「富士門流ニセ坊主軍団」のニセ坊主Bも「れん」なる者も、日蓮正宗元信者、創価学会元会員らしいのだが、大石寺の「『戒壇の大本尊』の在所の堂宇が本門事の戒壇」「『戒壇の大本尊』の在所は何処何方であっても事の戒壇」という大石寺独自の教義を知らないのだろうか。1970年代の大石寺66世細井日達法主の説法・指南、1990年代の大石寺67世阿部日顕法主の説法・指南に頻繁に出てくるのだが、全く見たことがないのだろうか。特にニセ坊主Bは、かつて日蓮正宗宗務院教学部長・大村寿顕(日統)氏が住職を勤めていた宝浄寺で寺男をしていたということだが、大石寺の「『戒壇の大本尊』の在所の堂宇が本門事の戒壇」「『戒壇の大本尊』の在所は何処何方であっても事の戒壇」という大石寺独自の教義を知らないのは、全く摩訶不思議という以外にない。この大石寺独自教義を知らないこと自体が、まさに「ニセ坊主」である証拠と言えよう。

さらに可笑しいのは、『大石寺久遠寺問答記』に大石寺本尊堂が記されているのを認めていながら、「戒壇の大本尊」には何も触れていないから、このころに「戒壇の大本尊」はなかったと言っているに至っては、「これは漫才ネタだろうか」と思ってしまう。ではその大石寺本尊堂には、何が祀られていたと言うのか。大石寺66世細井日達法主が1965216日の説法で

「戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。…その(日興嫡嫡相承の) 曼荼羅(戒壇の大本尊のこと)を、現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。」と言っているのを知らないのだろうか。大石寺本尊堂に祀られていた本尊とは、「戒壇の大本尊」以外にないではないか。こういう基礎的教学が欠けた状態で、さも知ったかふりをするのは、やめたほうがいいだろう。自分の無智蒙昧ぶ゜りを自分で暴露しているだけである。

9日有・52-53大石寺・久遠寺問答・大石寺本尊堂
 

 

(大石寺9世日有の代に大石寺本尊堂があったことが記されている『大石寺久遠寺問答記』「富士宗学要集」第9P53)