□検証4・「本尊三度相伝」偽作の馬脚が現れている「日蓮聖人」の語句

 

「本尊三度相伝」の内容の不審さは、まだある。次の文をよくよく読んでいただきたい。

「釈迦と申すは天照大神、西天に釈迦と顕れ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き、一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ。日本に又大明神と顕れ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る。末法濁世の時は日蓮聖人と顕れ、諸仏の本意を顕す。左れば釈迦・上行・天照大神、日蓮聖人只一体の習いにして、釈迦、幼少の御名は日種と、天照幼少の御名は日神と云ふ最も謂れあることなり」

「日蓮聖人は上行等四菩薩にて御座すなり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1p39)

38-39本尊三度相伝
 

 

そもそも、この「本尊三度相伝」という文書の話し手(書き手)・聞き手(読み手)とは一体誰なのか、ということになる。大石寺59世法主堀日亨は、著書「富士日興上人詳伝」の中で、日蓮から日興に本尊の相伝があったとし、そしてその本尊の相伝について

「本尊相伝は七箇相伝・三度相伝等」(『富士日興上人詳伝()p171)

として、「本尊三度相伝」がその日蓮から日興への本尊の相伝のひとつであると言っている。

大石寺59世堀日亨が云うように「本尊三度相伝」」が「日蓮から日興への相伝書」であるとするならば、話し手(書き手)は日蓮、聞き手(読み手)は日興ということになる。

そうすると、日蓮のことを、三人称で「日蓮聖人」などとは書かない。又、話し手が日蓮、書き手が日興などの弟子であったとしても同じであり、日蓮のことを「日蓮聖人」とは書かない。

「日蓮聖人と顕れ」とか「釈迦・上行・天照大神、日蓮聖人只一体の習いにして」とかいうふうに、日蓮を「三人称」で表現していることが、日本語の文法として、おかしいということである。

日蓮は、自らのことを「日蓮聖人」と書いた遺文があるが、それは「頼基陳状」「滝泉寺申状」という、日蓮が弟子の誰かに代わって「代筆」した文書である。代筆だから、必然的に日蓮は文法的に三人称になる。この「本尊三度相伝」という文書は、表向きは日蓮の教説を直接説く文書であるから、日蓮が誰かの代筆をした文書では有りえない。

この文中の「日蓮聖人」という言葉に、「本尊三度相伝」という文書が、日蓮ではない人物による後世の偽作である馬脚が顕れているということになる。

犯罪捜査でよく言われていることらしいのだが「犯罪者は必ず何らかのミスをする」という。そのミスが犯罪者を決定づける動かぬ証拠になったりする。推理小説・ミステリードラマ・映画などでは、よくこういうものが描かれているのを見かける。

この場合もまさに、宗教犯罪「本尊三度相伝偽作」を行った偽作者が犯したミスということではないだろうか。偽作者が「日蓮」と書くべき所を、うっかり「日蓮聖人」と三人称にしてしまっているものだから、「本尊三度相伝」という文書が、はからずしも後世の偽作である馬脚が顕れているということである。

36-37本尊三度相伝
 

40-41本尊三度相伝
 

 

(本尊三度相伝)