百六箇抄に、髙祖、法主、大聖人という単語が使われているが、これらはいずれも日蓮滅後に使われ出した単語である。正和元年(1312)十月十三日、康永元年(1342)十月十三日の後加文はいずれも偽筆である。この当時、まだ本迹勝劣論争は起きていない。日尊が日印に上行院を附属したのは1344年である。日蓮七回忌の時に六老僧が百六箇抄を拝見した事実はない。日興が日蓮の付弟になった事実はなく、日蓮葬送の導師もしておらず、寿量品の説法もしていない。百六箇抄に「無作三身」の単語が使われているが、これが使われている遺文(御書)は当体義抄、御義口伝、御講聞書、三大秘法抄、十八円満抄だが、いずれも偽書であり、日蓮は無作三身の単語を使っていない。大石寺59世堀日亨は、百六箇抄の戒壇大本尊、事の戒壇、日蓮本仏義、唯授一人血脈相承、広宣流布の日の日目再誕伝説、一閻浮提広宣流布、六万坊、多宝富士山本門寺の山号寺号の文を悉く一線、二線を引いて否定している。こういったことから百六箇抄が偽書であることは明らかである。