□創価学会員が言う「死ぬ時は真っ黒の相で死ぬ」世界は現実世界とは全く無関係の別世界の話

 

「隣の創価学会員・法華講員」の中の「狂気の福寿荘(仮名)」「溝口個人会館(仮名)・溝口工務店(仮名)」「喫茶店・コンパウンド(仮名)」から「ポンタツ(仮名)」、小矢木隆(仮名)の「劇団N」の鍋宴会等で創価学会員たちが、英昭彦に熱っぽく折伏をやり、創価学会への入信を拒否する英昭彦に対して、ムキになってやれ仏罰だの堕地獄だのと、脅迫的教学を説いていたが、そんなものは英昭彦にとっては何の説得力もなく、英昭彦の心には全く響かなかった。彼ら創価学会員たちは、かなり強引・執拗な折伏・布教活動をやり、私の実家の宗派が浄土真宗大谷派だと知ると、例によって彼ら創価学会員たちは、「念仏無間地獄」だの「念仏堕地獄」「死ぬ時は真っ黒の相で死ぬ」「真っ黒の死相で死ぬのが、地獄の死相だ」等を説く。

英昭彦の子どものころから1980年代ぐらいのころまで、英昭彦の母親が立正佼成会の金沢教会に通っていたのだったが、こういうところまで突いて、創価学会員たちは「新興宗教をやっていると不幸になる」などと脅迫してくる。さらに創価学会員たちは、「創価学会員は諸天善神に守護されるが、念仏や立正佼成会は絶対に諸天善神に守護されない。不幸になる。早死にする」などと、超独善的な脅迫をしてきたが、これらも英昭彦にとっては全く説得力がなく、英昭彦の心には何ら響くものがなかった。「早死にというのは、いつ死ぬというのか」と創価学会員たちに尋ねると、「30代から40代で死ぬのだ」という創価学会員。英昭彦の祖父、祖母、父母、祖父の兄弟、祖母の兄弟、父親の兄弟、母親の兄弟を見ても、30代から40代で早死にした人は一人もいない。

英昭彦の祖父は明治36(1903)生まれで、昭和57(1982)で死去したので、79才まで生きた。21世紀の現代は、男性でも平均寿命が80才を超えているらしいのだが、昭和50年代のころは、日本人男性の平均寿命はまだ70才台だった。それよりも何よりも、英昭彦の祖父は19311945年の日中戦争(満州事変~日華事変)で、旧日本軍兵士として三度、中国大陸に出征した経験があるが、ケガひとつせず、無傷で日本に復員した。もともと祖父は、英昭彦の実家から近い所にある、地元の造り酒屋・I酒造店に50年以上勤務し、昭和44(1969)66才で隠退し、隠居。祖父が若かりしころは、日本に社会保障も厚生年金も国民年金もなく、公的年金の支給はなかったが、祖父は、旧日本軍兵士とし中国大陸に出征した経験があったので、軍人恩給を受給していた。この軍人恩給が実質的な年金替わりになっていた。

英昭彦が小学生のころ、すでに祖父は造り酒屋・I酒造店を定年退職し、実家で隠居生活をしていた。祖父はよく小学生だった私に、中国大陸に出征した戦争体験を、よく聞かせてくれていた。

英昭彦が小学校から実家に帰ると、祖父がいたので、祖父と私の会話は、ほとんどが祖父の戦争体験だった記憶が残っている。祖父がよく語っていたのは、中国兵が撃った銃弾が祖父の足下で炸裂したことがあること。又あるときは、中国兵が撃った銃弾が祖父がかぶっていたヘルメットをわずかに、かすったことがあること。日本兵一人で歩くと、中国兵に狙われてしまうので、外を歩くときは常に二人で歩いたこと。座るときは、背中を壁に当てて座ったこと…、等々であった。

 

竹助7
 

(生前の祖父)

 

 

 

□「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」管理人・英昭彦の親族で死去したときに真っ黒の死相だった親族は一人もいない

 

明治生まれの祖父は、ヘルメットのことを「鉄かぶと」、銃のことを「鉄砲」、空爆・爆撃のことを「空襲」、駅のことを「停車場」、ベルトのことを「バンド」、中国のことを「支那」、バイクのことを「単車」、軍隊の兵士のことを「兵隊」、華北のことを「北支」、列車のことを「汽車」、イケメンのことを「色男」、戦争のことを「いくさ()」、サングラスを「色メガネ」、コピーをすることを「焼く」、金持ちのことを「財閥」と呼んでいた。

旧日本軍というと、今はずいぶんと軍国主義云々等とイメージが悪いのだが、祖父はずいぶん気さくで明るい性格の人で、中国大陸出征の話しも、ずいぶん明るく話しをしてくれた。家の中でも、いつも冗談を言う明るい人だった。すき焼きが大好きで、祖父が元気なころは、月1回は祖父が自分ですき焼きを造って、家族全員にふるまってくれた。英昭彦も英昭彦の父も日本酒が全くダメなのだが、祖父は日本酒が大好きだった。毎日の夕食前には必ず日本酒を二合呑んでいた。そんな明るかった祖父が、昭和54(1979)76才のときに、ほとんど寝たきり状態になってしまった。あの当時は、今のように老人ホームや老人保健施設もリハビリ施設も整備されておらず、社会保険福祉士もヘルパーさんもいなかった時代のこと。だから寝たきり状態になった祖父の面倒は、祖母が見ていた。祖父は昭和57(1982)11月、今の私の実家の寝室で、家族に見守られながら79才で死去した。あの当時、大学生だった私は、実家に飛んで帰ったが、祖父の死相は真っ白で、体は少々縮んでいたが、疲れて寝ているかのような相だったことを憶えている。

英昭彦の祖母は明治40(1907)生まれで、平成11(1999)92才で死去。祖父が昭和57(1982)11月に死去してからは、独り身になったが、英昭彦の実家で、英昭彦の父母と一緒に暮らしていた。父親は、祖母が長生きしていることが、かなりうれしかった様子で、すでに東京に住んでいた英昭彦と電話で話した時などは、「今じゃ、ばあちゃん(祖母のこと)も、80になった」「85になった」「86になった」「90になった」とよく言っていた。その祖母も、1998(平成10)年に自力歩行ができなくなり、金沢市内にある老人保健施設に入所。翌年の1999(平成11)年、老人保健施設内のベッドに横たわって死去した。施設の人の話によれば、当日の朝食を部屋で食べた後、「ごちそうさん」と言って、ベッドに横たわり、そのまま声をかけても返事をしなくなり、眠るように死去したという。

祖母は5人兄弟だったのだが、その一番末の弟が、2014(平成26)98才で死去している。

英昭彦の母親は、昭和11(1936)生まれ。2009(平成21)12月に73才で病死したのだが、ふとんの中で、疲れて横たわり、眠っているかのような顔で、真っ白な死相をしていた。母親も5人兄弟で、昭和3(1928)生まれの長兄は、2007年に79才で死去。あとの兄弟は、全員が健在である。昭和5(1930)生まれの次兄は、2012年に80才を過ぎてから病気で倒れたが、その後は病気を克服して回復し、富山市内の自宅で療養生活をしている。

昭和9(1934)生まれの英昭彦の父親も、80才を超えて健在。現在、金沢市内の有料老人ホームに入所し、ケアマネさん、ヘルパーさん、看護師さんのお世話を受けながら生活している。2013年に生命の危機になるほどの病気が1回、ケガが1回あったが、金沢市内の病院に入院して治療し克服。今は全く元気になっている。創価学会員は、「死ぬ時は真っ黒の相で死ぬ」「真っ黒の死相で死ぬのが、地獄の死相だ」などと、英昭彦の前で説いていたが、英昭彦の親族で、死去したときに真っ黒の死相だった親族は、一人もいない。祖父も祖母も曾祖母も母親も父の姉も全てふとんの中で、眠るように死去した。だから英昭彦にとって、「死ぬ時は真っ黒の相で死ぬ」「真っ黒の死相で死ぬのが、地獄の死相だ」などというのは、一体どこの世界の話しだ(?)ということになる。少なくとも英昭彦とは無関係の別世界の話しだな、オレとは無関係の話しだ、ということになるではないか。

 

酒井富美子4
 

(生前の母)

 

酒井きん2
 

(生前の祖母)