□夜のバイトのために東京都内へ引っ越しを計画していたが住居が見つからなかった英昭彦

 

英昭彦の大学一年めの生活は、いろいろな失敗やヘマをやったことも手伝って、かなりハードな生活をしていた。まず、大学に入ってから教職課程を履修していたため、他の学生よりも履修単位が多く、よって受講しなければならない授業も多い。そんなわけで月曜~土曜まで、昼間はみっちり大学に行って授業を受けていた。-----当時はまだ週休二日制になっていなかった。------

さらにこれに加えて、こんな事情もあった。石川県から関東に出てきて、大学に入学したが、何せ一人で生活するのは、はじめてのこと。食事の作り方も、調理の仕方も全くわからない。マーケットがどこにあるのか、クリーニングはどうしたらいいのか、全くわからない。しかも関東には、親族も親戚も、友人も知人も全くいない段階からのスタートである。そんな関係で、最初は、T大学の学生課で、賄い付きのアパートを紹介してもらった。賄い付きとは、アパートの家主が、学生の食事を朝食と夕食を造ってくれるのである。昼食は、T大学構内の学食があったので、賄い付きといっても、朝食と夕食の二食でよかった。しかしこれも1年だけと両親との約束だった。

というのは、英昭彦には4才年下の妹がおり、英昭彦が大学2年に進学する年に、妹が高校1年になる。妹が高校に入学すれば学費がかかる。だから、大学に入学した1年だけは、生活の面倒を見るが、大学2年になったら、バイトを見つけて、自分で生活してくれ、との話しになった。

というわけで、大学の授業に通いながら、アルバイトを探し、バイトにいそしんでいた。とはいっても、月曜~土曜まで、昼間は大学の授業でビッシリ。バイトができる日は、日曜日か祭日。あとは7月、8月の夏休み期間、12月、1月の冬休み期間、2月、3月の春休み期間だけになるが、大学の授業、試験は順調で、全ての単位を取得。大学2年に進級した。2年生になると、いくらか時間的な余裕が出来て、バイトが出来る時間帯が広がった。

1年生の時は、S県近郊の工場、作業場、工事現場での肉体労働や警備員のバイトが多かったが、いろいろな仕事をやっていくうちに、昼の仕事よりも夜の仕事のほうが、時給、日給が高いということがわかる。そこで、次第に夜の仕事のバイトが多くなっていく。最初は、警備員の仕事で夜の仕事。夕方6時から朝6時までの12時間労働で18000円。あの当時は、今と違って日本が好景気で人手不足の時代。警備会社も人手不足だったようで、学生の警備員でも歓迎された。

あの1980年当時、昼間、工場や工事現場のバイトをしても時給500円くらい。せいいっぱい1日働いても15000円くらいの収入にしかなせなかった。月10万の収入を得るには、昼のバイトだと20日働かなくてはならないが、夜の仕事だと13日働けば稼げる。昼間は大学で授業。夕方から夜はバイト。そして次の日の昼は大学で授業という日もしょっちゅうだった。1980年当時は、英昭彦は19才。身長171センチ、体重は58キロで、ちょっとやせ型の体型だったが、馬力と体力はあった。さらに大学の友人が増えて、いろいろな情報が入ってくる。゜○○と△△は、授業なんか行かなくても試験だけ受ければOK」というのもあり、そうなると、その科目の日はバイトデーになった。

 

霞ヶ関駅下宿近辺3
 

 (T大学キャンパスからほど近い所に借りた当時のアパートがあったあたり。当時のアパートは、今は取り壊されていて存在していない)

 

 

 

□安いアパート探しをしていた英昭彦の弱みにつけ込んで謀略的カラクリを仕組んだ創価学会員

 

かくして大学一年で、当初の貧しい生活から、少しばかり経済的な余裕が出来た。夜はバイトばかりではなく、友人たちと東京・池袋や新宿、歌舞伎町に遊びに行ったり、友人のアパートでマージャンやパーティーをやることもしばしば。

少し経済的な余裕はできたものの、新たな住む所を見つけなければならないという問題が起こった。大学学生課の紹介で入った下宿先は、賄い付きで家賃も安く、大学にも近いという利点があったが、バイト先に通うには、すこぶる不便だった。というのは、夜の仕事のバイトは、大半が東京都内の仕事で、英昭彦には、住む所が東京都内にあったほうが便利に思えた。しかし、大学の学生課で紹介している下宿先は、ほとんどが大学の近所のものばかり。東京都内の下宿先など皆無だった。そこで東京都内の不動産屋の物件を見ると、家賃が当時の下宿先の数倍。「いやー、家賃が高いなあ」と思いつつ、いろいろ探したが、どれもこれも家賃が数倍のものばかり。どうにも、都内のアパートが見つからない。引っ越し問題が暗礁に乗り上げていたころ、T大学のキャンパス内で、たまたま矢田敏夫(仮名)と話をしたとき、引っ越しの話が出た。

「ウチの近くに、安いアパートがあるのを知っているよ。月々の家賃は一万円だよ」という矢田敏夫(仮名)。さらに矢田敏夫(仮名)は、「池袋駅からちょっと離れているけど、近々、地下鉄が開通して駅が出来るから、便利になるよ」とまで言う。さらにオマケがついて、「引っ越しするんだったら、みんなで手伝うよ。カネはいらないけど、そうだなあ、引っ越しそばぐらい、おごってくれればいいよ」とまで言う矢田敏夫(仮名)。引っ越し問題が暗礁に乗り上げていたころだったから、この矢田敏夫(仮名)の言葉は、あの当時の英昭彦にとっては、まさに「渡りに船」に見えた。

早速、矢田敏夫(仮名)の紹介で、その家賃1万円のアパートの家主に面会。瞬く間に契約の話しがまとまった。東京・豊島区で家賃1万円というと、いくら1980年でも「超激安」だが、これには裏があった。まず1980年当時で「築30年」になんなんとするくらいの木造2階建てのアパート。しかも共同玄関、共同トイレで、風呂なし。ただし徒歩23分のところに銭湯があった。銭湯といっても、今のようなスーパー銭湯ではなく、昔のまんまの銭湯。アパートの場所は、池袋駅から徒歩で20分以上はかかる。ただし、当時から地下鉄工事が行われていて、今の要町通りは、グニャグニャに曲がりくねり、道路上はいたるところに鉄板が敷いてあった。ここが開業して営業運転を開始したのは1983年になってからのこと。英昭彦が在住していたときは、ついぞ開業しなかった。

そんな悪条件だったが、トントン拍子で引っ越しまで進んだ。ところがである。この話も、後で分かったことだが、矢田敏夫(仮名)が仕組んだワナであった。

つまり英昭彦が、安いアパートがなかなか見つからない状況にある「弱み」につけこみ、自分の住んでいるアパートの近所に英昭彦を引っ越しさせ、創価学会に入会させるつもりだったのである。引っ越しの手伝いに来た大学生たちは、全員が矢田敏夫(仮名)が呼んできた創価学会員だった。つまり「安いアパートを紹介して、引っ越しも手伝ってやったんだから、創価学会に入れ」と言うつもりだったというわけ。しかしこういう謀略的カラクリがわかったのは、ずいぶん後になってからで、その当時の英昭彦は、全く気づいていなかった。

 

千川アパート近辺1
 

 

(矢田敏夫(仮名)が紹介した築三十年のアパートがあったあたり。今はアパートは取り壊されてマンションになっている)

 

千川アパート近辺4
 

(築三十年アパートの最も近くにあった銭湯周辺。今は銭湯はなくマンションになっている)