大石寺「戒壇の大本尊」は黒漆塗り・金箔加工の板本尊である。これは大石寺58世日量の「富士大石寺明細誌」の中の「地黒漆文字金色なり」の文をはじめ大石寺歴代法主の文献に載っている。したがって「戒壇の大本尊」を造立するには身延山以外から楠木を自力調達し、漆、漆職人、金、金箔加工職人が必要になるが、日蓮の弟子・檀那・僧侶・信徒のみならず、日蓮門下以外の人を含めても、日蓮に「楠木」「金」を供養した人は一人もいない。日蓮が「楠木」「金」の供養を受けたことを証明する遺文はひとつもない。「百六箇抄」に「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して」との文があるが、「百六箇抄」は偽書であり、日蓮が財力・経済力を持っていた証拠ではない。日蓮は身延山で極貧・極寒・飢餓生活をしていた。そんな日蓮に漆塗り・金箔加工の「戒壇の大本尊」造立の財力・経済的はなかった。これは日蓮遺文に遺っている。「飢喝申すばかりなし。米一合も売らず。餓死死ぬべし」(富木殿御書)「山中にて共に飢え死にし候はん」(乙御前御消息)「かかる身なれば蘇武が如く雪を食として命を継ぎ…果なき時は空しくして両三日を過ぐ」(単衣抄)「食なくして雪をもちて命をたすけて候ところに」(庵室修復書)「富人なくして五穀乏し…塩五合を麦一斗に換え候ひしが、今は全体塩なし、何を以てか換うべき、味噌も絶えぬ」(上野殿御返事)「雪堅くなる事金剛の如し、今に消ゆる事なし、昼も夜も寒く冷たく候事…酒は凍りて石の如し…寒いよいよ重なり候へば、着物薄く、食乏しくして、さしいずるものなし…其の身の色、紅蓮・大紅蓮の如し、声は婆々大婆々地獄にことならず、手足寒じて切れ割け、人死ぬこと限りなし」(兵衛志殿御返事)「五尺の雪降りて本よりも通よわぬ山道塞がり、訪いくる人もなし、衣も薄くて寒防ぎ難し、食絶へて命すでに終はりなんとす一度に思い切って餓へ死なんと案じ切って候ひつるに(上野殿御返事)「処は山中の風はげしく、庵室はかごの目の如し、うちしく物は草の葉、着たる物は紙衣、身の冷ゆる事は石の如し、食物は氷の如くに候へば」(四条金吾許御文)等々の遺文に、日蓮が身延山で極貧・極寒・飢餓生活をしていたことが、明らかにわかる。もし仮に日蓮が弟子・檀那ないしは鎌倉幕府(鎌倉殿)から「金」の供養、ないしは十万貫の寄進を受けていたなら、餓死寸前、凍死寸前の極貧生活・極寒地獄の生活、飢餓地獄の生活をするはずがない。身延山でもっと裕福な生活をしていたはずである。したがって富木殿御書、乙御前御消息、単衣抄、庵室修復書、上野殿御返事、兵衛志殿御返事、四条金吾許御文の日蓮遺文は、日蓮が身延山で極貧・極寒・飢餓生活をしていた証拠であり、それは同時に日蓮に漆塗り・金箔加工の「戒壇の大本尊」造立の財力・経済的はなかった証拠でもある。「戒壇の大本尊」偽作造立に、莫大な費用がかかることは、「戒壇の大本尊」を偽作した大石寺9世日有が一番よく知っている。大石寺9世日有も、日蓮が身延山で極貧・極寒・飢餓生活をしていた文が遺る日蓮遺文を当然知っていた。この中には日蓮真筆が大石寺にある遺文もあり、室町時代に出版された録内御書にも載っている。この矛盾をひっくり返す為に大石寺9世日有が捏造した偽書が「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して」との文がある「百六箇抄」である。