僧侶の女犯は1872(明治5)年以前からあった。奈良時代の弓削道鏡と孝謙天皇(女帝)の関係。1206年、後鳥羽上皇の女官と密通した法然の門弟。奈良時代、江戸時代は僧侶の女犯を厳しく取り締まったが、平安・鎌倉・室町時代は、女犯の取り締まりが緩く、事実上の妻帯僧もたくさんいた。伝教大師最澄は、女犯を禁じる上座部仏教の戒律を全廃した。これが比叡山の風紀が乱れる元になったと考えられる。織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちにする理由として、比叡山延暦寺の僧侶の腐敗、女犯乱行を挙げている。浄土真宗の開祖・親鸞は公然と妻帯(恵信尼)して43女の7人の子をもうけた。真宗歴代法主・門首は、全て親鸞の子孫である。室町時代の僧侶・一休宗純も実質的に妻帯していた。日蓮宗や浄土真宗は「末法無戒」を説いており、これが肉食妻帯の理論と化している。上代は、流人の世話をするため、流人を妻帯させたケースもあった。浄土真宗本願寺派・大谷派8代蓮如は、生涯で5人の夫人がいて、1314女をもうけた。第一子は27才のときの子だが、最後の第27子は83才の時の子である。蓮如も1472年、草津温泉に湯治に行っている。江戸幕府は、僧侶の女犯を厳しく取り締まったが、浄土真宗各派は取り締まりの例外だった。銭湯の起源は、寺院の浴堂。銭湯は長らく男女混浴で、別浴のはじめは1791年の「寛政の改革」の「男女入込禁止令」。上代の有馬、雄琴、白浜、草津、熱海等々の日本各地の温泉には、遊郭・花街があり湯女もいた。さらに旅籠には、飲食のサービスの他、夜のサービスをする飯盛女、飯売女がいた。その湯女は、江戸時代になると、江戸の銭湯にもいた。吉原の遊郭とは別である。