■天英院(1666-1741)とは、徳川幕府六代将軍・徳川家宣の正室 近衛熙子(このえひろこ)。父・近衛基熙 母・後水尾天皇の娘・品宮常子内親王。京都の公家出身である。大石寺関連では、日仙授与本尊を感得して江戸常泉寺に奉納。六代将軍・徳川家宣が大石寺に三門を供養寄進したということが言われている。しかし世間的には、「江島生島事件」の当事者として有名。これは月光院(家宣側室・七代将軍家継生母)との権力闘争である。日蓮正宗は、天英院があたかも大石寺の信者であるかのように言っているが、天英院は大石寺の信者・檀那ではない。徳川将軍家の菩提寺は浄土宗・芝増上寺と天台宗・上野寛永寺である。徳川将軍家は家康以前から浄土宗を信仰していた。徳川将軍が浄土宗の信仰をしているのに、正室(御台所)が大石寺の信仰をするなど、あり得ない。天英院は没後、徳川将軍家の菩提寺・江戸増上寺に土葬された。(分骨は絶対にない)→徳川将軍家霊廟が第二次世界大戦で焼失→遺体を荼毘に付す→徳川将軍家墓所を再建→宝塔を建立になり、宝塔に埋葬された。天英院は徳川将軍家墓所・六代将軍家宣(文昭院殿)と同じ宝塔に葬られている。増上寺に葬られている将軍・正室・側室とは、二代将軍秀忠・六代将軍家宣・七代将軍家継・九代将軍家重・十二代将軍家慶・十四代将軍家茂・5人の正室・5人の側室である。なぜ大石寺は五重塔脇に天英院「供養塔」(五輪塔)を建てて墓のように偽っているのか

1には、徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳。浄土宗の増上寺、天台宗の寛永寺を菩提寺とする徳川将軍家から供養を受けることは大石寺の教義に矛盾する 「天英院が大石寺信者だった」と偽ることで苦し紛れ・ゴマカシている。では徳川幕府はなぜ大石寺に三門を供養したのか。それは、「隠れ不受不施派の取り締まり」のためである。2には「そんな正しい信心なら、どうして昔から有力者が大石寺の信仰をしなかったのか」との疑問に対する、苦しい言い訳である。